√HAPPY END 12

――あの家には固定電話があったけれど、ボクがそれを使うことはほとんどなかった。十年前の時点ですでに携帯電話は普及していたから、受けることだって稀だった。それに電話というものがあの頃はどうも苦手だったから、居留守を使うことも多かった。
 あの時――両親が死んだことを伝えるあの電話を受けたのが、ボクが最後にあの家で取った電話だった。

× ×

 気がついたら、ウェイバーは自宅の前に立っていた。
 まだ就業時間だし、当然仕事は残っているので帰宅すべきではなかった。なのに、ウェイバーの足は勝手に動き、何かを求めてここにたどり着いた。
 一体何を。彼自身、混乱しながら自問した。困り果てて額に手を当てると、冬だというのにじっとりと汗をかいている。走ったわけでもないのに。焦りと恐怖のせいでこうなっているのかと思うと、情けなくて笑いすら――
「……は」
 奇妙に歪んだ口元は、ため息になりそこなったような空気を漏らす。

――テロだって
――地下鉄の駅が……
――ああ、神様!

 家へ向かう道すがら、耳が拾っていた街中の立ち話を思い出す。
 笑えない。笑えるはずがない。
 こうして今ここで自分がぼんやりとしていていいのか。もっとやるべきことがあるんじゃないのか。
 例えば、ニュースを確認するとか、立香に「無事か」と連絡するとか。

「ウェイバー?」

 そのとき背後から、彼女の声が聞こえた。
 ウェイバーはそれを聞き逃すことはなかったが、振り返ることができなかった。
 本当に立香だろうか。幻聴でも幽霊でもなく、生身の肉体を持った立香だろうか。
 馬鹿みたいな疑念が浮かんで浮かんで、浮かぶだけで消えてくれない。立ち尽くしたままウェイバーは何もできず、漫然と十数秒が過ぎる。
すると、自分の希望的観測が妄想になったんじゃないかとすら疑っているウェイバーの上着が引かれた。
「どうしたの? 仕事は?」
 心臓が口から飛び出そうな驚きと、同時に泣き出しそうな安堵が襲ってくる。耐えかねたのか反射的に振り返ったウェイバーは、怪訝そうな顔をした立香を見た。
「ウェイバー……?」
 生きている。
「え、本当にどうしたの? 顔色悪いよ?」
 手のひらが伸ばされて、冷たい頬に触れている。
「風邪引いちゃった? あれ? コートどうしたの?」
 あたたかくて、やわらかくて――もう、制御できなかった。
「――」
 厚手のウールのコート越しに、立香の身体を感じた。華奢で小さくて、頼りない。けれど確かに生きている、ここにいる。ウェイバーの腕の中で、彼女はきちんと呼吸し、その身体に血を通わせている。
――よかった。
 確かめるように背中や頭を撫でるウェイバーのただならぬ様子に、立香はしばし、思考を停止させてしまった。
 抱きすくめられている。その事実が、冷静さを消し去っていく。
体調不良で倒れかかったのかと思ったけれどそうではないらしい。と、気付いたところで何ができるわけでもなく、何を言えるわけでもない。
 ただ肩越しに、嗚咽のような呼吸を聞いた。躊躇いながら手を伸ばした先の背中は、微かに震えているようだった。
「ウェイバー……」
 慰めているのか、励ましているのか、立香自身、背中を撫でている自分の手のひらの意図がわからなかった。ウェイバーはまるで小さなこどものようだった。離れ離れにならないように必死で立香にしがみついている。ウェイバーの方が大きいのに、いや、だからこそ、その頼りなさが不安だった。
 と、ようやくウェイバーが口を開く。
「――巻き込まれたかと思った」
 呼吸すら堪えていたように、ウェイバーは一息に吐き出した。『巻き込まれた』 それが何を意味しているのか、立香は一瞬の間の後に理解する。
「……もしかして、さっきのテロのこと?」

 迷子になった挙げ句夕刻のために暗くなってきたので、立香は大人しくタクシーで帰宅することにした。臨時ニュースを見たのはタクシーの中、車載テレビでだった。つい数十分前まで散歩していた通りにほど近い地下鉄構内で爆発。付近は一時的に封鎖されたものの、僅かな差で一本離れた通りに出ていたらしい。
 地図アプリと翻訳アプリを駆使して状況を把握した立香は、直後にマシュからの連絡を受ける。泣き出しそうな、というかほとんど泣いていたマシュに無事だと言って聞かせ、通話が終わった頃には家の近くまでたどり着いていた。ウェイバーにも念のため連絡するべきだろうとはもちろん考えていたけれど、これなら帰宅してからゆっくり電話したほうが……と、思っていた矢先に、玄関先に見慣れたスーツの後ろ姿を見かけて仰天。これが、立香の先ほどまでの出来事だった。

「すぐに連絡しなくてごめんね、心配かけちゃったね」
 ウェイバーは返事をしない。ただその両腕に力が込められるだけ。苦しいほどの抱擁は、そのままウェイバーの心痛を表しているようだと思った。
「でも大丈夫、ね? ほら、ちゃんと生きてる、怪我もない」
 言い聞かせても、ウェイバーの腕が解かれることはない。立香は苦笑する。
「巻き込まれたりしないって、確率的には交通事故に遭うよりずっと――」
「そんなわけあるか!」
 ウェイバーが叫ぶのを、立香は初めて聞いた。激高することはおろか、声を荒げることすらほとんどなかった彼が、叫んだ。
「そんなわけ……ないだろう……ボクの両親は――それで死んだんだ」
「――」
 
 その時の心境をなんと言い表せばよかったのか、立香にはきっと一生わからないと思った。ウェイバーの両親がテロに巻き込まれて亡くなったことを知らなかったこと、知らなかったから、軽率に「そんなことに巻き込まれるわけがない」なんて言ってしまったこと、きっとトラウマになっていたウェイバーの心を、知らなかったとはいえ、抉ってしまったこと。

「また、失うかと思った……また誰か大切な人が、ボクの前からいなくなる」
 ウェイバーは立香の肩に額を、目元を押しつけた。泣いているのだろうか。立香にはわからない。わかるのは自分の胸が、まさに張り裂けそうなほどに痛むこと。そんな立場でもないくせに、視界が滲んで涙がこぼれそうなこと。
立香は必死に耐えた。唇を噛んで、目を大きく見開いて。こんなあからさまな涙は、ウェイバーを馬鹿にしている。
「ごめん……ごめん、ウェイバー、知らなかったの、わたし、あなたのお父さんと、お母さんが――」
 なのに、そこから先は言葉にならなかった。
 どれだけ辛かっただろう。どれだけ悲しく、心細かっただろう。
 立香は負けじとウェイバーの背を抱いた。十年前にきっとこうして誰かに縋りたかったウェイバーごと抱きしめたかった。それができないのなら、これからその十年を取り戻す。自分を「ボク」と言う彼を、この先ずっと、ずっと先をかけて。だって――
 
「立香……泣かないで。大声を出して、ごめん」
 ウェイバーの腕が解かれて、身体が離れていく。ぴったりと寄り添っていた身体の隙間を、冬の冷たい空気が冷ましていくようだった。
「君のせいじゃない。むしろ巻き込まれないようにする、なんてことが無理な話なんだ」
 そのせいかそのおかげか、ウェイバーは少し落ち着きを取り戻したらしい。相変わらず顔色は優れないが、取り乱したりはしない。
 立香がほっとしたのもつかの間、次の瞬間にウェイバーは冷たく彼女を突き放す。

「だから立香……日本に帰ってくれ」

 何を言っているのかよくわからなかった。
「……なんで?」
「巻き込まれないようにするのは無理だけれど、ここより日本のほうがずっと安全だ」
「そ……」
 絶句した。
 それは確かに、そうかもしれない。でもそれは、交通事故に遭わないために家から一歩も出ないとか、水死を恐れて水のある海やプールに近寄らないとか、そういう馬鹿げた、極端すぎる発想と同じではないか。
 立香は納得できなかった。それに、ウェイバーが急にこんなことを言い出したのも気になる。
「だからウェイバーは、わたしを帰すの?」
「ああ」
「わたしのことが、好きなのに?」
 ウェイバーは苦しげに眉を顰める。
「……そうだよ。好きだから、君には幸せになってほしいんだ」
 目を逸らしながら、ウェイバーは小さく笑った。
「いや……違うな。全部ボクのためだ。今日みたいなことがあるたびに、ボクはこう思うに違いない。『ボクがここに連れてきたのがいけなかった』って。そう思うのが嫌なんだ」
 事実を語っているのかもしれないけれど、ウェイバーの言葉には違和感があった。たとえそう思っていても、ウェイバーは自己保身だけでこんなことを言い出すわけはない。たった二週間でも、立香にはそのくらいわかる。今のは何の意味もないただの、言い訳。
 ウェイバーは多分、立香を連れてきたことに不安がないわけではなかったのだと思う。今日のような事件がなかったとしても、この先人一人の人生を負っていくだけの覚悟だとか決心だとか、そういうものがまだ十分ではなかったのかもしれない。そこにトラウマを刺激されるようなことがあって、不安定になっているんじゃないか。立香はそう考えた。
 だったら、帰れるわけがない。
 自分のことを嫌いになって、それで「帰れ」と言われたなら帰ろうとも思う。けれど自分を想うあまり、精神的に不安定になった挙げ句極論に走ってしまったウェイバーを放っておけるわけがない。
「……そんなの、おかしい」
 立香の声が震えていた。泣いているためではなく、微かな怒りのせいだった。
「じゃあウェイバーは、もしわたしがウェイバーの言うとおりに日本に帰って、その飛行機が途中で墜落でもしたら、また自分のせいだって思うの?」
 ウェイバーは、「それは論理の飛躍じゃないか」と言いかけて、やめた。言っていることは自分のそれだって変わりはしない。
 口ごもっていると、立香がとうとう、顔を歪めて泣き出した。
「ほら、おかしいじゃない! ウェイバーの――馬鹿!」
 泣き出した挙げ句、こどものように握り拳でウェイバーの胸をどんどん叩いてくる。正直、痛い。手加減なんてまるでされていない。けれどその手を止めることもできずに、ただウェイバーはされるがままだった。こんな激情をぶつけられて、あろうことか嬉しいとすら感じていた。
 間違っていたのだろう。彼女の幸福を願うあまり、自分以外の誰かの手にそれをまるごと委ねようだなんて思ったことは。ウェイバーは自分の愚かさを恥じ、まだ立香がウェイバーに愛想を尽かしていないことを、こうして彼女と触れ合っていることの喜びを噛み締めた。
 立香は泣きじゃくって、しがみついて、ウェイバーを離さない。
「絶対帰ってあげない。わたし、ウェイバーのこと絶対一人になんかしない」
 立香は涙を拭うことすらしなかった。鼻の頭を真っ赤にしたままウェイバーを見上げている。
「立香……」
 こんなにも献身的な我儘があるだろうか。こんなにもまっすぐな眼差しを受けたことがかつてあっただろうか。
 いや――きっと、十年前から彼女はそうだった。あの頃の立香もきっと、こうしてウェイバーのために泣いてくれたに違いない。ウェイバーの前には、十年間変わらぬ少女がいる。たった一人、ずっと探していた『誰か』がここにいる。
「決めたんだから。わたし、もう決めた」
「……何を?」
 涙をたっぷりためた両目が瞬きをすると、雫がぽろぽろとこぼれ落ちた。ウェイバーの指先は、きっと今、それを掬うためにあった。
 立香は泣きながら、懸命に笑う。

「ウェイバーが、好き。だから、ウェイバーと結婚する」

 立香が倒れ込むように抱きついてくる。けれど一緒に倒れたりなんかしない。今は十分、支えられる。立香が倒れそうなときは、自分が支える。自分が倒れそうなときは、きっと立香が支えてくれる。……正直、そっちの方が多そうだけど。
「ウェイバーと、幸せになる」
 その一言だけで、嘘のように不安や恐怖は消えた。気負いすぎていた自分も、同時にいなくなったようだった。
「うん……幸せになろう」
 抱きしめる腕が震えている。けれど、もう怖くはない。
 二人ならきっと、そうできると思えた。だって傍らにいてくれるだけで、文句のつけどころがないくらい幸福なのだから。
 涙声でウェイバーは笑った。プロポーズの場面で二人して鼻水が出るほど泣いている。
 十年前からずっと変わらない。自分はこの人の前では、本当になんの格好もつけられない。
 それが恥ずかしくて嬉しくて、幸福そのもので――ウェイバーは天を仰いで瞼を閉じた。
 こんな幸福を、甘受することが許されるのだろうか。

 遠くから、すべてを祝福するように、鐘の音が聞こえていた。