√HAPPY END 11

 立香がイギリスを訪れ、ウェイバーの家で暮らし初めてから早2週間が経過した。
 相変わらず二人の関係は変わらず、昼間はウェイバーが仕事に行き、立香は街中を歩いてみたりマシュと待ち合わせてみたりとそれぞれに過ごしている。顔を合わせるのは朝と晩だけだが、ウェイバーは毎日のように何かと立香の世話を焼いた。やれ食事は口に合うか、昼間不便なことはないか、夜はあまり一人で出歩かないように、など。
「今日は出かけるのか?」
「うん、マシュと、いつものレストランに行って、それからあのあたりをぶらぶらしようかって言ってる」
「あまり迷惑をかけないようにな」
 正直子供でもないのだからと呆れもしたが、世話を焼く様子が意外だったし様になっているのも予想外だったのでつい聞いてしまう。
「仕事で人の世話したりするの?」
 聞きながら自分でも「そんなわけがあるか」と思っていたので、ウェイバーの苦笑には少し申し訳なくなる。
「いいや、そういうわけじゃないが……心当たりがなくもない」
 奥歯に物の挟まったような言い方に、つい立香は追求してしまう。
「心当たりって?」
「昔アルバイトで家庭教師をしていたんだが、まあ、困った生徒が多くてね」
「家庭教師!」
 それはウェイバーにとってぴったりのアルバイトに違いない。彼は成績優秀だったし、あの頃からクラスメイトに教えるのも上手かった。おまけに一人でできる仕事だ。カフェのホールをするよりずっと向いている。なるほど、困った生徒に手を焼いているうちに、世話焼きの素質を開花させたのだろう。
 それにしても。
「先生だったんだ、ウェイバー先生。あ、でも今も先生か」
 こっちじゃどうだか知らないが、日本では弁護士は先生呼ばわりされるのが常だ。
「んー、でも、ウェイバーみたいな先生だったら大変だ」
「大変?」
 どういう意味だとウェイバーは眉を上げる。そんな深刻な話ではないと前置きし、立香は笑った。
「わたしが生徒だったら、こんなかっこいい先生と二人っきりなんて、きっと勉強どころじゃないからね」
「……」
 軽い冗談のつもりだった。もちろん、ウェイバーの容姿を褒める意図はあったしそのくらいは笑って受け止めてくれるだろうと思っていた。が、ウェイバーは黙ったまま、唇を引き結んでいる。
「……ウェイバー?」
 何か失言だっただろうか。立香が不安そうな表情になってやっと、ウェイバーはこの場の雰囲気に気付いたらしかった。
「――いや、なんでもない」
 どう考えてもなんでもないわけはないだろうに、ウェイバーは誤魔化すように笑うと、そのまま出勤のためにドアを開けて出て行った。オートロックで鍵がかかる音が、やけに寂しかった。

「そういうのを、思わせぶりって言うんですよ、先輩」
 午前十一時のレストランは人もまばらで、マシュの言葉もよく響いた。
 イギリスを訪れてから最初に会って以来、なんだかんだでマシュとは三日に一度くらいのペースで会っている。会う度に立香はウェイバーとのことを話してくるし、そうでなくてもマシュは聞き出すつもりだったので今日の話題が今朝の出来事になるのも当たり前と言えば当たり前だった。
 マシュは、やや厳しい口調で諭そうとしているらしい。
「いいですか、彼はきっと内心ではとても不安なはずです。だってこんなにも好きな人に気持ちを伝えて、その返事をずっと待ってる最中なんですから」
 マシュのこんな顔を見るのもおそらく初めてだったので、立香はつい、茶々を入れるように話の腰を折ってしまう。
「不安そうには見えないけど……」
「そう見せてるだけだと思いますよ」
「……」
 そうか、そうなのか?
 まあ確かに三十近くの男が毎日おどおどしているのはちょっと目も当てられない……かもしれない。
 スープのカップを覗き込んで考え込む立香に構うことなく、マシュは続ける。
「そんな状況で、先輩が返事もしないくせに外見を褒めたり気があるような素振りをしたら、いい気分はしないと思います」
 マシュの言葉は厳しいが、言い返すことはできなかった。
「……」
 そんなつもりじゃなかった、とは言えなかった。もちろん、立香は今こうして指摘されて初めて、思わせぶりな態度を取っていたのかと気付いたので、確信犯的にやっていたわけではない。ただ、それなりに社会経験を積んで、対人スキルも身に付けているのが当然のこの歳になって「そんなつもりじゃなかった」と言い訳をするのはさすがに許されないだろうと思った。そのくらい、考えついて当然だ。
 マシュだって呆れるだろう。情けなさに身を縮める立香に、しかしマシュはやわらかく微笑む。
「でも、先輩は昔からそうでしたから」
「えっ?」
 顔を上げると、マシュは自然に笑っていた。少しだけ「してやった」感があったので立香は目を見張ってしまう。
「誰にでも優しいから、『ひょっとして気があるのかな』なんてその気になって浮かれて、でもそれ以上何もないから勝手に失恋する……そういうの、高校の頃からありましたよ」
 先輩は気付いてないと思いますけど。マシュはすまして笑っているが、立香の顔は引きつって強張っている。
「……うそ?」
「嘘じゃありません」
 沈黙を見計らったのか、テーブルにサラダが運ばれてくる。入れ替わりのように去って行くスープの皿を見送ってしまうのは、マシュの言葉も表情もにわかには信じがたいためだろうか。
「本当ですよ? 半分揶揄も入ってましたけど、魔性の女なんて言われてましたし」
「えっ……えっ? 魔性?」
 生まれてこの方馴染みなどない単語を聞かされてオウムのように復唱してしまう。狼狽える立香とは裏腹に、マシュは朗らかな表情を崩さなかった。裏があるようには思えず、この口ぶり……マシュは「魔性の女」を褒め言葉とでも思っているのでは……? と、勘ぐってしまった。
「だから先輩、真剣に向き合うなら、そういうのはやめたほうがいいと思います。もちろん、意識してやってるわけじゃないと思いますけど……」
「そうだね……マシュの言うとおりだ」
 思ったことをすぐに口に出してしまうせいで苦労したのに、まったく成長しないものだ。サラダにかかったフレンチドレッシングは酸味が利きすぎて、少し眉間に皺が寄る。彼もこんな表情をすることがあった。例えばなにか難しい本を読んでいるとき。そんなウェイバーを見ていると、すぐに彼は立香に気付いて顔を上げてくれる。そのときにはもう、険しさの欠片もない。
 マシュは、穏やかな表情で食事をする立香を見ていた。
 本当はそろそろ、彼をどう思っているのか問いただそうかとすら思っていたが、そんなことはもう必要ない。真剣に向き合うと決めた時点で、立香は無意識に答えを出していたのではないか。今では、そう思える。
 立香が幸せなら、それでいい。
 結果がどう転んでも、マシュはウェイバーへの感謝をやめないだろう。彼のおかげで、立香の顔色は二週間前とは比べものにならないほどよくなったのだから。
「先輩」
「うん?」
 サラダボウルからマシュへと視線を移す立香の顔に、あの頃の少女が一瞬オーバーラップする。取り戻して欲しい。彼女が無為に費やしたという十年を。彼が抱き続けてきた同じだけの想いも、報われて欲しい。
「うまくいくと、いいですね」
 立香は一瞬、驚いたような顔をした。それから困ったように視線を泳がせて、結局へにゃりと笑う。頼りないような、けれど、いい笑顔だった。

× ×

 食事の後は予定通り街へと繰り出したのだが、途中でマシュに急の呼び出しが入ったため、立香は一人でぶらぶらと歩くことになった。幸い、何度か歩いた道なので何もわからないことはないし、二週間の滞在中にウェイバーとマシュから簡単な英語は教わっている。(しかも、ノートにメモしている)よほどのことがない限り、夕方までには仮の住まいに帰れるだろう。
 平日ではあるが、街に人影は多い。さすがにイギリスの首都ということか、観光客風の装いがやけに目に入る。
「まあ、わたしもか」
 彼らのように大きな荷物やガイドブックこそ持っていないが、立香が観光客であることに変わりはない。
 だから、いずれはここを去らなければならない。
 すでに帰りの航空券は買っている。日付は、二週間後。つまり遅くともそれまでに、ウェイバーには答えを告げなければならない。ウェイバーもその日付のことはわかっていただろうから、あのタイミングで立香に思いの丈をぶつけたのだろう。
「二週間かあ」
 これまでの二週間でウェイバーに対する気持ちが固まったのだろうか。あるいは、残りの二週間で何らかの答えが出るのだろうか。あの家で過ごすのはとても居心地がいいけれど、それはウェイバーへの好意というより、それこそ上げ膳据え膳の生活の快適さから来るものだろう。そんな即物的な感情をウェイバーへの気持ちだと偽ってちゃっかり彼の隣に居座るようなことが、立香には到底、誠実なことだとは思えない。どだい、彼女自身そうやって疑ってしまう程度には自分自身に確証が持てない。
 そんなことを悶々と考えながら、立香は街を歩いた。転んだり車にぶつかったりしない程度には注意していたが、気付けばまったく知らない道に迷い込んでいたらしく。
「……あれ?」
 見たこともない看板が並ぶ通りで、立香はついにその足を止めてしまった。

× ×

 その日のウェイバーはと言うと、めずらしく職場から一歩出て一服していた。普段なら勤務前と昼休みを除いて退勤まで一服もしないのが常だが、今日はげんなりするような案件が立て続けに舞い込んだせいでさすがに音を上げてしまった。
 コートも着ていないが、日が射している間はそこまで寒くはない。むしろ暖房の効いた部屋よりは頭がすっきりするようで、心地よかった。一本吸ったら戻ろうかと考えていたが、なんとなくだらだらと二本目に指を伸ばしてしまう。残り三本。帰り際に買っていかなければ――
「……ん?」
 サイレンの音が聞こえる。救急車と消防車と、パトカーがそれなりの数、どこかに向かっているらしい。何か事件だろうか。嫌な記憶を掘り返されるようで、自然と顔が険しくなる。
 街行く人々もただならぬ気配を感じたのか、不安そうな表情で話し合っている。手元の端末をいじっているのはニュースサイトでも確認しているのだろうか。
 何か、嫌な予感がした。予感というよりは、半ば確信に近い。
――うん、マシュと、いつものレストランに行って、それからあのあたりをぶらぶらしようかって言ってる
 今朝、立香が言っていたのは、あの方角じゃなかったか。
 ウェイバーはポケットに手を突っこみ、端末に触れる。取り出して操作をすれば、真実にはすぐにたどり着くのだろう。いや、まだ情報が出そろっていないかもしれない。不確定な情報で一喜一憂するなんて馬鹿げている。
(まさか――)
 どうすればいいのかわからなかった。まだそうと決まったわけじゃない。でも、蓋を開けてみなければ、結果を確かめられない。
 不安なままのウェイバーの足下に灰が落ちる。煙草の味がもう感じられない。考えまいとしているのか考えすぎているのか、冷静な思考ができないウェイバーは、通行人の言葉で血の気を失った。
 
「――テロだって」

 音が遠ざかっていく。視界が狭まっていく。息が、苦しい。
 それから自分がどうしたのか、ウェイバーはあまり、覚えていない。
 その場に残されたのは、燻ったままの煙草だけだった。