√HAPPY END 10

「どうして髪、伸ばしてるの?」
 ロンドン9日目、土曜日。
 一週間前の雪が嘘のようだった。穏やかに晴れた公園の遊歩道を、立香とウェイバーは並んで歩いている。午後の日差しは時折雲によって遮られ、マーブルのように不確かな模様を足下に落としていた。
「ああ……これは、別に意味があるわけじゃない」
 歩幅の差を意識させないほど自然に歩みを緩めているウェイバーを、立香はきょとんとした目で見上げた。女性なら腰まで伸ばしているのもそれなりに見かけるが、今まで立香の周りには彼ほど髪が長い男性はいなかった。どう考えても相応の理由があるだろうに、本人は「意味はない」と言う。
「え? じゃあ、知らないうちに伸びてたとか、そういう……?」
 いやいやさすがにそんなズボラではないだろう……と、立香も自分の思いつきに苦笑するのだが、ウェイバーの顔は今日の天気ほどは晴れない。
「半分くらいは、まあ……当たらずとも遠からず……」
「……ほんとに?」
 ウェイバーは、ややバツの悪そうな顔でどこか遠くに目を逸らしている。
「一時期ものすごく忙しかったもので……ほったらかしてたらいつの間にか背中のあたりまで伸びてた」
「わあ……」
 確かにかつてのウェイバーはおかっぱみたいに切りそろえられた髪型だった。あれを数ヶ月放っておけば見事なロングヘアになるだろう。
「さすがに鬱陶しくて一つにまとめたら、案外そっちのほうがすっきりしたもので……夏だったからな」
「ああ、それはそうだね」
 ひどく納得したのか、立香はうんうんと何度も頷いている。彼女自身覚えのあることだが、夏の間は下手に髪を短くするよりまとめられる程度に伸ばしたほうが結局涼しく過ごせる。非常に理に適った行動だし、ウェイバーらしいと言えばらしい。まあ、ここまで長くする必要はあったのだろうかという疑問は残るが。
 ウェイバーは、長髪の理由に納得してもらえたようで胸をなで下ろしていた。似合わない、変だ、そう言われたらどうしようかと内心ビクビクしていたのは気付かれていないらしく、二重の意味で安堵している。
「最初に見たときびっくりしたけど、なんかこう……ずっと前からこうだったみたいにしっくりきてるっていうか……ああ、ウェイバーみたいな人を雰囲気のあるイケメンって言うんだろうね」
「……」
 それは褒められているのだろうか? 「雰囲気イケメン」だと外見的にはそうでもないと言われているような気がするが、「雰囲気のあるイケメン」だとイケメンである上に雰囲気があるという意味だろうか。
 ニコニコしている立香の真意を見抜けずに返答に困ったのだが、ウェイバーは僅かに表情をやわらかくしながら鼻をかく。
「……つまり、君から見たら私は、それなりにルックスがいい、ということになるのかな」
 改めて言葉にすると照れるというより恥ずかしいのだが、立香の口からイケメンなんて言葉がすでに出た後なのでまだウェイバーのほうが婉曲的表現だ。別に照れる必要もないだろうに、実際のところ意中の相手に褒められればウェイバーだってそりゃ、嬉しい。
「それなりどころかわたしのこれまでの人生の中では五本の指に入るよ、余裕で」
 なにせ元がよくなければこうも髪を伸ばして似合うわけもあるまい。真顔で力強く言われて、ウェイバーはさらに狼狽える。
「それはちょっと言い過ぎなんじゃないか?」
「そんなことない。こんなにかっこいい人初めて見た」
 次は断言。というか、「初めて見た」だと五本の指どころか一番になってしまうんじゃないか。と、ウェイバーは指摘しそうになって、なんだか思い上がっているような気がしてやめた。
「昔はねえ、あんなにかわいかったのにねえ」
 かと思ったら今度はがっかりしている。肩を落としてそんなことを言われれば、ウェイバーだって釈然としない。それに、「かわいい」という形容詞を向けられるのは嫌な記憶を掘り起こされるようでいい気はしなかった。
「覚えてる? 文化祭で――」
「その話はナシだ」
 間髪入れずに遮られて、立香は「ぶっ」と噴き出しそうになった。
 どうやら文化祭でアキバ系メイド服を着せられて女子たちから化粧まで施された思い出は見事な黒歴史になっているらしい。
 仏頂面をさらにしかめた顔には、さっきまでどこか浮き足立っていたような晴れやかさはない。イギリスの天気は変わりやすいらしいけど、こんな感じなのかもしれない。
「覚えてるわけね……」
「ナシだと言っただろ!」
 ついにウェイバーは声を荒げてしまった。別に怒っているわけではなくて、うんざりしているような呆れているような声音だというのは立香にもよくわかった。
「ごめん」
 だから、笑みを浮かべたまま両手を挙げて「降参」する。ウェイバーはふて腐れたまま返事もしない。臍を曲げたのだろうか。
 けれど、一応ウェイバーだけが餌食だったわけではない。文化祭のテンションでタガが外れた女子たちは化粧映えしそうな華奢な男子をクラスを問わず(最終的には学年すら問うていなかった)ターゲットにしていた。立香が見ただけでも、哀れな被害者は五人はいたように思う。
(やっぱり嫌だったのかな……)
 ちらりと横顔を窺うと、むっつり黙り込んだ口元と眉間の皺が目に入る。ここまで嫌がっていたとは思わなかった。十年越しに立香は反省し、自己嫌悪した。
「あの……ごめんね」
 しおらしく俯く立香の反応が予想外で、ウェイバーはぎょっとする。
「いや、別に、言わずにいてくれればそれでいいんだ」
 実際彼も未だに根に持っているわけではない。悪夢に見てうなされることもないし、思い出すことだって最近は稀だった。だから立香にそこまでしょげられるのは本意ではないし、険しい顔つきで誤解させたのかと慌ててしまう。
 気にしてないとウェイバーは言うが、立香は首を横に振る。
「そうじゃなくて……あのときウェイバーに着せてみたらって言ったの、わたしだったの」
 沈黙。ほどなくしてどこかから、鐘の音が聞こえてくる。
 目を見開いたウェイバーは数秒考え込むような顔をしていた。これはさすがに怒られるだろうと立香も身構えていたのだが、
「はあぁ……」
 ウェイバーの口から出てきたのは特大のため息だけだった。
 これが何を意味しているのか、そのくらい立香にだってわかる。
「……呆れてる?」
 がっくりと肩を落としたウェイバーが頷く。
「なんでまた、そんなことを」
 理解に苦しむ。そう言いたげに、目と目の間を指先で揉んでいる。やっぱり鼻が高いなあと羨ましく思いながら、立香は正直に白状した。
「いや、見たかったもんで、つい」
「……見たかった?」
「うん……まあその、好奇心というか、若気の至りというか、若さ故の過ちというか……要は軽い気持ちだったけど、そんなに嫌だったって思わなくて……ごめん」
 女の子が男装するのとは全然違うよね、と、立香はまるで男装を楽しんだ経験でもあるような口ぶりで謝罪した。男装した立香……ちょっとだけ見たい。ウェイバーは思い描きそうになったビジョンをかき消すように首を横に振る。
「いいんだ。昔のことだし。……まあ、今ちょっとだけ、おまえが犯人だったのかって、むかつきはしたけど」
 最後は少しだけ意地悪な口ぶりになったが、このくらいの意趣返しは許されて欲しい。
「ごめんってば! もう時効でしょ、時効!」
 これ以上つつくと立香のほうが怒りそうなので、ウェイバーは笑って頷いた。今となっては、彼が立香の男装姿を見たいと思ってしまったので、もう彼女を責められない。
「そうだな、時効だ。もう十年も昔のことだ」
 遠い日のこと。鮮やかだった思い出。忘れてしまいたくないのに、時間は容赦なく押し流していく。ウェイバーは、すべてがすり抜けていくのを見送るかのように、自分の手のひらを見つめた。
「でも、ウェイバー、変わってないよ」
 一陣の風が吹いて、木々の枝を揺らしていく。
「具体的にどこって言われると困るけど、ウェイバーの中には、あの頃のウェイバーが今もいるよ。背も伸びて、髪も長くなって、声も低くなって、別人みたいだって思ったけど、ウェイバーはウェイバーだ」
 雲が切れる。日差しを受けて、立香の髪が金色に縁取られていた。
 眩しかった。
 立香の言うとおりだと思った。目の前には、髪をまとめて化粧もして、少し落ち着いた大人の立香がいる。でも、ウェイバーの目を捉えて放さない、あの頃の立香も確かにいる。
 そして、彼女に惹きつけられてやまない、あの頃のままの少年もまた、ウェイバーの中に確かにいた。
「年末からずっと、よそよそしかったよね、ごめんね。でも、もう大丈夫。あのころみたいに、話してもいい……?」
 立香がやわらかく微笑んでいる。冬の光の中で、そこだけが春のようにあたたかい。
 泣き出しそうだった。
 これだけでもう、十分だとすら思えそうだった。十年間求めていた人が、あの頃のままに微笑んでくれている。それだけで、ウェイバーの十年が報われた。そんな想いだった。
「ああ……ああ、もちろん」
 惚けていたウェイバーに言われて、立香は笑い、少しだけ表情を強張らせた。
「聞いても、いいかな」
 少しだけ、歩みが遅くなる。立香は、問いかけの内容を中々口に出さなかった。
 どこかのスポーツサークルだろうか、数人の集団が後ろから、二人をあっというまに抜き去っていく。その後ろ姿を見送っているのか、顔を上げた立香がしばらくしてようやく、口を開けた。
「ウェイバーはわたしのこと、好きって……言ってくれたけど、それは、この先のこと、ずっと先の、将来のことも考えての、好き、なのかな……」
 ウェイバーは息を呑んだ。
「もちろん、」
 それが、願いなのだから。
「できるなら、この先をずっと、君と一緒に過ごしたいと思っている」
 言葉を選んではいるが、プロポーズも同然。いわゆる「結婚を前提にしたお付き合い」の申し込み。改めて、どれだけ重要なことを言っているのか痛感してしまう。双方ともに。
「……そっか。そういう相手に選んでもらえるって、すごく……なんていうか、ありがたいね」
 立香は少しだけ顔を赤らめていた。困っているには困っているのだろうけど、嫌悪によるものではないとウェイバーは知っていた。むしろ十年間会っていなかった相手にいきなりこんなこと言われて即突っぱねられなかっただけありがたい。普通なら一蹴しそうなものだ。良くも悪くも相手と向き合うことを厭わない立香らしい態度だと思った。
 本人は、それを「煮え切らない」と気にしているようだが。
「ごめんね、気持ち、決まらなくて。ずっと考えてるけど、まだ自分でもよくわからなくて……ここでずっと暮らすのかな、とか、両親のこととか、考えると……ね」
 それは当たり前だろう。ただでさえ人生を左右する申し出に加えて、足を踏み入れたこともない土地での生活やらこれまでの人間関係やら、数多の課題が立香の上に舞い込んできているのだから。にも関わらずウェイバーを案じる発言なのだから、本当に彼女はお人好しなのだろう。十年前から、変わらない。
「セールストークじゃないが、別に私は、日本に暮らすことになっても構わない」
 ウェイバーの発言に、立香は目を丸くした。
「えっ?」
「確かに今ここで働いているし、人種的にもイギリス人だが、私は日本で生まれたし、育ったからな。どちらかというと日本のほうが合っている……かもしれない」
 立香は半分納得したような、半分不思議そうな顔だった。
「そう、なの?」
「多分」
 十年離れていたし日本での就業経験がないので断言はできないが。
 そうなんだ、と、何度か頷き、立香は「答えなくてもいいんだけど」と前置きし、
「ねえ、ウェイバーは、こっちに家族はいないの?」
 気になっていたことを尋ねた。
 両親が亡くなり、またウェイバーに兄弟姉妹がいたという話も聞かない。彼は、天涯孤独なのだろうか。交際やら結婚やらは抜きにしても、立香はそれが気がかりだった。
「いないことはないが……」
 ウェイバーの歯切れが悪い。言いたくないなら言わないでと立香が気を遣うのだが、それが逆に心苦しくてウェイバーは話し始める。
「少し田舎のほうに祖父母がいる。叔父夫婦が世話をしているから何かしなきゃいけないわけでもないし……まあ、嫌われてるから」
「嫌われてる……?」
 オウム返しの立香が不安そうな顔をしていたので、ウェイバーは安心させるために笑いながら頷いた。
「両親が死んだとき、私を気遣って日本まで来てくれたのが二人でね。最初は気の毒がってくれたし、いろんな手続きのことも世話にはなった。ただ、二人が強く勧めた大学に進学しないと言ったところで揉めてしまって、半ば家出というか勘当同然で家を飛び出して、それっきり」
「……あら」
 意外だった。そんな行動力があるとは思ってもみなかったが、両親の死のストレスがそうさせたのかもしれない……と、立香は素人考えを巡らしてみる。
「その後は、ウェイバー、どうしたの?」
 まさか路上生活というわけでもないだろうと言うと、ウェイバーは歯を見せて笑った。
「衝動的にギリシャまでの航空券を買って、それから……バカみたいだと笑われるかもしれないが、東へ行ってみようと思って、旅をしたんだ」
「へえ!」
 それはいい。旅はウェイバーの心を慰めただろう。立香は話の中身が暗くなかったことが嬉しくて、ぱっと明るい表情を浮かべた。
「何でそんなことしたんだろうな。もしかしたら、日本に帰りたかったのかもしれない。いや、そうだとしたら、そんなまどろっこしいことをせずに最初から日本行きの旅券を買ったかな……」
 ウェイバーは当時を懐かしんでいるのか、語り口は独り言のようだった。
「どこまで行ったの?」
 立香の疑問に、ウェイバーは答えない。
「どこだと思う?」
「うーん……わからない」
 しばし考えたが、まずギリシャの位置が大体でしかわからないし、ギリシャの東にある国もはっきりとはわからない。地図を出せば当てずっぽうも言えただろうが、それすら今は適わなかった。まさか中国まで行ったわけでもないだろうことくらいは想像できたが。
 ウェイバー立香の考え込む様子に目を細めていたが、結局どこだと言われることもなかったので、特に隠す必要もない答えを披露する。
「インド」
「インド!」
 そんなところまで、と、立香はわからないなりにも、遠大な旅路を思って目を見開いた。
「そこでやめた。水が合わなくて、腹を下した。安宿でうんうん唸りながら、何やってんだろうって思って、イギリスに帰ったよ。今の家は両親が残してくれてたから、そこで数年、ルームシェアというか、部屋をいくつか貸しながら大学に通った」
「そうなんだ……」
 大学に入ったあたりは聞けなかったけれど、その後順調に卒業して、行き倒れの社長を助けた縁かなんかで今の会社に勤めるようになったのだろう。
 それが、ウェイバーの十年。
 自分の十年とは比べものにならないほど、濃密な時間に違いない。立香はこれまでのことを思い返し、「適わないな」と小さく笑みを溢した。
 ロンドンの日暮れは早く、あたりは少しずつ橙に染まっていった。今やジョギングする老夫婦に追いつかれるほど、二人の歩みは遅い。この後の予定としてフローレンス・ナイチンゲール博物館が控えているが、こんなところでモタモタしていたら入館時間が終わってしまうだろう。
 が、観に行きたいと言った本人が先に足を止めてしまった。
「行きたいって言ったけど、やっぱり帰ろう?」
 唐突だった。ウェイバーは二歩前から、立香の笑顔を振り返る。
「帰る?」
 まだティータイムにもなっていない。疲れたのかと聞くと、そうではないと立香は笑う。
「わたし、ウェイバーの話、もっと聞きたいな。博物館は、また今度、行こう?」
 立香はまた歩き出す。公園の出口へ向かって、ウェイバーの腕を引きながら。
「――君が望むなら」
 困惑しつつも、ウェイバーはそれに従った。
 立香の真意はわかりかねるが、話を聞きたいと言われたことも、次回の約束も、純粋に嬉しかった。
 喜びのためか安心したせいか、ウェイバーはひっそりと欠伸をかみ殺す。それを立香は見ていなかったが、疲労したウェイバーには朝から気がついていた。

 そもそも、長期休暇の直後の週末が忙しくないわけがない。
 ウェイバーは毎日十九時には帰宅していたけれど、深夜まで持ち帰った仕事を片付けたりどこかに電話していたのは知っている。遅くまで彼の部屋から漏れる明かりを見ていたのだから。
 それでも、自分のために時間を捻出しようとするウェイバーの気持ちを無碍にはできなかった。朝からあちこち連れて行ってもらって、英語が不得手な立香のためにあれこれ説明してくれた。
(もう、十分だよ)
 案の定帰路のタクシーの中で、ウェイバーはすぐに寝息を立て始めた。そこまで疲れていたとは思わず、立香は自分のほうにもたれてくる彼の頭をただ黙って受け止めた。
「ありがとう……ウェイバー」
 膝の上に投げ出された大きな手のひらに、立香は躊躇いながらそっと触れる。それはきっと無意識だったろうけど、握り返すウェイバーの温度は、何よりもあたたかだった。