√HAPPY END 09

 ロンドン五日目。
 寝坊した昨日よりも早く、つまりいつも通りの時間に起床したウェイバーがダイニングルームへ向かうと立香が一人でコーヒーを飲んでいた。暖房はまだ入っておらず、スリッパ越しの足の裏に冷たさが染みこんでくる。
「……おはよ」
 眠そうな顔の彼女の傍らに、花瓶に活けられた花束――だったものがあった。勤め先のエントランスや応接室に飾られているのと比べるのが気の毒になるほど「ただ入れただけ」としか言いようのない様だったので、多分立香がやったのだろう。捨てられなかっただけマシかと思って、ウェイバーは小さく笑った。
「ずいぶん眠そうだ。ちゃんと寝たのか?」
「……んーん」
 どこか不満そうだった。それどころかちらっと睨まれたようにも思う。
「眠れなかったのか?」
 迷ったものの、尋ねてみればどうも図星。うっと言葉に詰まってマグカップを掴む手に力を込めている。
「ちゃんと寝た方がいい」
「わかってるよ……」
 口答えする子供ののような態度にウェイバーは苦笑し、コーヒーメーカーに残っているコーヒーをカップに注ぐと立香の向かいに腰を下ろした。一体いつからこうしているのか、口に含んだコーヒーは保温されすぎてやたらと濃かった。
 暖房が入っていないダイニングに、まさか夜中からいたとは思えないし思いたくない。怪訝な顔をしているウェイバーを見て立香もなんとなく察したのか、一時間ほど前に目が冴えて起きてきたのだと告げる。
 心配させまいと嘘をついているのではないかと疑いかけたが、立香に器用な嘘が吐けるとも思えないし、疲労の色濃い顔つきから察するにそんな余裕もなさそうではある。ベッドの中で一晩中まんじりともせずに朝を迎えたのでは……いや、考えても仕方がないし、自分は立香を叱るような立場にはない。なので、ウェイバーは冗談を言ってこの話を終わらせることにした。
「眠れないほど私を想ってくれたのなら、それはそれで光栄だが」
「……」
 しかし――案の定と言うべきか――立香は、白けたように目を細めてウェイバーを見ている。というか、睨んでいる。
「なんだ、その顔」
 つまらん冗談だったことは認めるが、そこまでされるほどだろうか。眉を上げると、立香は呆れたように言う。
「プレイボーイみたい」
 やや低めの声で、多分、詰られている。
「慣れてるね」
 皮肉が言いたいのだろう。視線を逸らす素振りから、顔を見るのも嫌だと言われているような気分になった。
 ウェイバーは少し、焦っていた。そういえば再会の日にも「よりどりみどり」だとかなんだとか言われていた記憶がある。立香はこちらの事情も知らず、ウェイバーが海千山千の手練手管に長じたジゴロだかスケコマシだかだと思い込んでいるのでは? だとしたら、不名誉な誤解は解かなければならない。
「ちょっと待て」
 立香の、視線だけがウェイバーに戻ってくる。
「むしろ逆だ。何の経験もない。女性を口説いたこともないし、深い仲になったこともない。……あ、いや」
 訂正、口説いたというか、告白したのはあった、一度だけ。それは立香も知っている。
「……あれは忘れてくれ」
 苦々しい思いで口にすると、立香も少し困ったような顔で頷いた。
 驚いたのは立香の方だ。
「……ほんとに?」
「何が」
「ほんとに、あの、その、お付き合い、とか……ないの?」
「ない」
 まっすぐに立香を見ているウェイバーの目に、嘘や冗談の色はない。
 理解に苦しむ返答だった。だって、こんなに高身長でイケメンで多分高収入の男性なのに? 女性と付き合った経験もない?
「なんで?」
「なんでと言われても……」
「いや、だって、そんな、寄ってくるでしょ?」
 女の人が、よりどりみどりに。
「……なくはないが、誰でもいいってものじゃないだろう」
 うっと詰まる。そりゃそうだ。ウェイバーほどのスペックならば誰でもいいから付き合いたいなんて思わないだろう。まあ、十年前のことはおいといて。
 確かにウェイバーのようにハイスペックだと外側しか見ない人から言い寄られたりもするのかもしれない。それは、いい気分はしないと思う。あるいは――
「そうだけど……そう、なんだけど……やっぱり理想が高いとか?」
 ハイスペックゆえに相手にもハイスペックを求めた結果誰とも付き合えないのかもしれないのでは?
 ウェイバーはどこか納得したように数度頷き、
「ある意味ではそうだな。たった一人、君でなければ意味がないんだから」
 あっさりとそんなことを言うものだから立香はまた、ぐうの音も出ない。
「またそうやって……」
 苦々しく溢しながら空になったマグカップを持って立ち上がり、シンクで洗い始める。
「なんだ」
 それを追いかけるようにウェイバーもシンクの方へ行くと、またもじっとり、睨まれた。
「ものすごい口説き文句だって思ったの!」
 しかし立香の目元が赤い。睨んでいるのは照れ隠しと見て、ウェイバーはひっそりとほくそ笑む。
「そうか。口説いたことがないので加減がわからん。許してほしい」
「すごい余裕……」
 泡のついた手を差し出される。洗うからカップをよこせと言いたいのだろう。しかしウェイバーは首を横に振って、立香の手からスポンジを奪っていった。
「余裕なんてない。そう見えるなら、ただのハッタリに過ぎない。どう見えているのかわからないが、今だって本当は逃げ出したいくらいだ。……逃げ出したりは、しないけどな」
 きゅっと気持ちのいい音で、カップが洗われている。
 黙っていればわかりもしないのに、馬鹿正直に「ハッタリだ」なんて、どういうつもりなのだろう。自分をよく見せたいとか、そういうことは考えないのだろうか。
 ああ、考えないのだろう。
(多分、この人は……)
 律儀で、誠実なのだ。立香はウェイバーの横顔を見つめながら、そう感じていた。
 確かにここに来たときに、ウェイバーは立香に家事なんかをさせるつもりはないと言った。約束した決まりでもないのだが、それはきっちり守られているし、今だってたかがコップ一つですら、ウェイバーは甘えたりしなかった。それが少し寂しくもあるけれど、あの頃のウェイバーが滲ませていた「一人きりでいいんだ」と言いたげな人を寄せ付けない雰囲気がだいぶやわらかく変化した結果なのかもしれない。
 それでようやく、立香はピンときた。この律儀さは、確かに女性とのお付き合いの経験のなさによるものかもしれない。甘えたり、甘えられたりという関係は多分今でもウェイバーは苦手なのではないだろうか。だから人は人、自分は自分、ここからここまでが干渉していい範囲……みたいな、一線引いた関係に甘んじている。
 恋人ではなくても、親しい関係になった人が少なかったに違いない。きっと、甘え方を知らないのだ、彼は。
 立香は少しだけ、胸が苦しかった。それが自分でなくても、いつかウェイバーが自分のカップを任せられる人が現れてくれることを祈った。

「出かけないか、週末。二人で」
 コップを洗い終わったウェイバーは、しばらく黙りこくっていたかと思うと不意にそんなことを言いだした。シンクの前に並んだ二人の間に、寸の間沈黙が訪れる。
ぽつんと、蛇口から水滴が落ちていく。
「君を――招いたのは、私だからその、観光案内ぐらいはすべきだと思って」
 沈黙をどう受け止めたのか、ウェイバーは噛み締めるように一言一言、言い訳じみた理由を述べる。
「それはありがたいんだけど、いいの?」
 ただでさえ忙しいだろうに、長期休暇明けでそんな暇があるのかと言うと、ウェイバーは「そんなことは君の気にすることじゃない」と言う。なるほど、忙しいのか。
「忙しくてもそれは仕事、プライベートは別だ。公私混同はしない」
「そう……?」
 どうにも、これ以上言い返しても引きそうにないので、立香は諦めることにした。この言い方だと行き先は立香の希望に沿ってくれそうだし、できるだけ近場の名所を提案するほうがウェイバーの負担にならない。そう考えて立香は笑う。
「わかった。じゃあ、デートだね?」
「で、ッ」
 何の気なしの一言だったのだが、ウェイバーにはそう思えなかったらしい。何をどうしたのか突然咽せて咳き込んでいる。
「えっ……ちょっ、大丈夫?」
 何がなんだかわからないが、多分自分の発言のせいでウェイバーが咳き込んでいるのは明らかなので立香はその背中をさすってやる。手触りのいい背広の内側に、がっちりと成長したウェイバーを感じる。
(別人みたい……)
 やっぱりどう考えても、16歳の時点で自分より背が低かったウェイバーがここまで成長するというのは信じがたい。おまけに、そのウェイバーがさほど親しい仲とも言えなかった自分に求愛……これもまた、いくら言われても信じられない。
「いや、大丈夫……すまない」
 ウェイバーは身を起こして立香の手を静かに拒んだ。触れることからすら回避しようとする様には、彼の言う不慣れ云々よりもずっと、痛々しさのようなものを感じてしまう。
「とにかく、で……デートでもなんでもいいが、行きたいところとかあったら、そこに行こう」
 深呼吸した後のウェイバーはほとんどいつも通りだった。ただ一つ、少しだけ赤い頬を除いては。
 別に勝ち誇っているわけではないけれど、立香はそんなウェイバーを見て少しだけ嬉しかった。今でもウェイバーの中にはあの頃の少年が隠れている。意地っ張りで恥ずかしがり屋で臆病で、だけど本当は誰より繊細な優しい人。それを知っているのはもしかしたら自分だけかもしれない。そう思うと、誇らしいような気恥ずかしいような気持ちになった。
「――うん。考えとくね」
 ところで。
「家政婦さん、遅いね?」
「そうだな……」

 昨日はこの時間にテキパキ朝食の準備をしていた家政婦が今日はまだ来ない。別段彼女は気を遣って部屋に入らなかったわけではない。単に地下鉄が遅延していたために遅刻しただけだった。
 ウェイバーにその連絡が入ったのはそれから数分後のことだった。朝食は行きしなに買って食べるからと出勤する彼を見送り、立香は誰もいない部屋の中で大きな欠伸を一つする。
 昨夜は色々考えて眠れなかったせいだろう、今になって猛烈に眠くなってきた。家政婦には申し訳ないが、朝食を待たずに仮眠させてもらおうと立香は再び床に入ることにした。眠くなければウェイバーに朝食を作れたのにと思うと申し訳なくなる。とは言っても、あの調子ではウェイバーは頑なに固辞しただろうから、立香は気にするのをやめた。
 ビッグベン、大英博物館、ウエストミンスター。日本から持ってきたガイドブックの表紙を眺めた者の、眠気に耐えきれずに目を閉じる。晴れるといいな、そんなささやかな願いを呟いて、立香は眠りの中へと落ちていく。

 一方のウェイバーは、日の出の街を歩きながらどういうわけか緊張していた。
 デート。
 彼自身、それは自覚した上で申し出たつもりだったが、立香の口から聞かされると途端に具体的な実感を伴って響いてくる。
 きちんとエスコートできるだろうか、とか、何を着ていったものか、とか、考え始めると何をする気にもなれない。そんなわけなので結局彼は朝食を買い忘れたまま出社してしまい、いまいち身の入らない午前中を過ごす羽目になった。
 が、その日の彼がどこか機嫌良く浮ついているように見えると噂されていたことを、ウェイバーは当然知らない。