√HAPPY END 08

 翌日のウェイバーは、幾分すっきりしない頭で出勤した。というのは寝不足のためである。風邪が治ったのはいいが治すために丸一日眠っていた(というか、眠っていろと強制された)せいで昨晩は寝付けなかったのだった。
 欠伸をかみ殺しながら、出掛けの光景を思い出す。
 長期休暇を終えた家政婦に立香のことを説明したのだが、本当に二人を引き合わせただけでタイムオーバーだった。
「すまないが時間がない。ごちそうさま。――立香、何かあったら連絡して。それじゃ」
 前半は英語で家政婦に、後半は日本語で立香に。朝食もそこそこに慌ただしく家を出て行くウェイバーを、二人はどこか呆れた目で見ていた。
「――いってらっしゃい、気をつけてね!」
 立香は多分、急ぎすぎて転びでもしやしないかと心配しているのだろう。と、ウェイバーは自嘲した。好きで寝坊したわけではないのだが、他人のせいにするつもりももちろんないので黙って飲み込むしかない。
「……心配なのはこっちだ」
 立香はほとんど英語で会話できないし、家政婦のほうは英語以外わからない。別に両者が会話する必要もないだろうが、何となく気がかりだった。

 一方の立香は、今日の予定を告げる間もなくウェイバーが出て行ってしまったので途方に暮れていた。オマケに家政婦には言葉が通じないし、そもそもあまり歓迎されてもいないようだ。それもそうだろう。細かい事は知らないが、今までの賃金で二人分の世話となったら誰だって不満に違いない。
 仕事の邪魔をするのも申し訳なかったので、立香は早々に朝食を片付ける。朝から重めのメニューだったが、残すなんて考えつかないほどに美味しかった。食器を流しまで運んだときにそう伝えると、家政婦の雰囲気が少しだけやわらかくなったような気がした。ちなみにスマホの翻訳アプリを使ってなので、正しく伝わっているのかは疑問が残るところではある。
 
 朝食後、簡単に身支度を済ませた立香は外に出た。ヒースローに降り立った日とは違って、今日はすっきり晴れている。ほんの僅かではあったものの、ふわりとあたたかさに包まれたような気がして、立香は詰めていた息をふっと解いた。
 街並は日本とはまったく異なるが、どこか馴染みがあるように感じてしまう。何故だろうかと考えてもはっきりとはわからなかったが、車道が日本と同じ左側通行だからかな、と、結論付けることにした。この街並に慣れるほどは、ロンドンにはいられない。懐具合と相談して一ヶ月、切り詰めて一ヶ月半、そのくらいだろう。まだこの街がどんなものかを知らないけれど、立香は少しだけ、惜しい気がした。

「先輩!」
 待ち合わせたのはとある大学近くの喫茶店で、相手は半年ぶりに会うマシュ・キリエライトだった。時間ちょうどに訪れたのに、マシュはすでにテーブルで本を広げている。その几帳面さもさることながら、すっきりと切りそろえられた春色の毛先も変わらない。初めての街で馴染みの顔を見つけた立香は、呼びかけられた嬉しさにほっと安堵した。
「ごめんね、待たせちゃったね」
「いいえ、用事が早く終わったので。お気になさらず」
 そうは言うが、マシュの手元には半分ほど減ったカフェラテがある。早めに来てくれたことには違いない。席につきながらもう一度詫びると、マシュは困ったように笑って「大丈夫ですから」と立香をねぎらった。
 ちょうど昼時だったので、マシュおすすめのランチメニューを挟んで二人は談笑する。故郷のこと、家族のこと、近況、そして立香とウェイバーのこと。
「風邪はもう大丈夫なんですか?」
 マシュが気にかけるのには理由がある。そもそもは昨日こうして会う約束をしていたのだが、家主が伏せっている以上出て行くわけにも行くまいと立香の方から延期を申し出たのだ。
「うん。今日は普通に仕事に行ったみたい。ちょっと慌ててたけど」
「そうですか、先輩もお元気そうですし、なによりです」
 マシュとしては、顔も見たことのないウェイバーよりも十年来の付き合いである立香の方が、比べるまでもなく大事な存在である。風邪を移されなくてよかったと言外に滲んでしまったかと少し焦ったが、立香の方はまったく気付いていない。パスタをフォークに巻き付けることに懸命になっている。
 しかし、その様子がどこか不自然だとマシュは訝しんだ。元々お世辞にも器用とは言えない立香だが、カトラリーをカチャカチャやるだけで何一つ掴めていないのはどうにもおかしい。立香の顔へ視線を移すと、案の定晴れない表情を浮かべている。
 尋ねるべきだろうか。もしかして何かされたのでは? ああ、やっぱり男女が同じ屋根の下なんて――と、マシュは煩悶していたのだが、
「……あのね」
 先に口を開いたのは立香だった。フォークを置いて、躊躇いながらも言葉を選んでいる彼女をマシュは静かに待った。
「君がいてくれてよかった、だって」
 そう言う立香の表情を、何と言い表したらよいのだろう。
 寂しそうで、でも、嬉しそうで。けれどどちらの感情も、決して表に出すまいと堪えているような苦しさも滲んでいる。
 それがマシュには解せなかった。立香は、思ったことをどんどん口にするし、何でもすぐ顔に出るタイプだ。こんなふうに堪えるようなことは――社会人になった今はそうする必要がある場面もあるだろうけど、気心の知れたマシュを前にしている今はそんな場面ではない――決してなかった。
「わたしが看病したからじゃなくて、ずっと前からそう思ってたんだって」
「それは、」
 どういう意味なのかと尋ねようとして、マシュは言葉を飲み込んだ。
 それを一番知りたいのは、立香なのだ。
「どういう意味なんだろうね。それ以上のこと、聞けなかったし、言われなかった」
 こんな、今にも泣き出しそうな笑顔をしているのだから。
「でも、きっと深い意味なんてないよね。勝手に期待するなんてバカみたいだし、優しくされたからって、そんなの……」
 マシュには、わからなかった。ウェイバーの真意だってわからないし、立香がどうしてこんなにも卑屈で悲観的になっているのかもわからなかった。引っ込み思案で、友達もいなくて、ずっとひとりぼっちだったマシュに笑いかけてくれたあの頃の立香はどうしてしまったのだろう。仕事を辞めたと聞いた。付き合っていた男性と別れたとも聞いた。そのあたりのことが関係しているのかもしれないが、立香が話そうとしないので無理に聞き出そうとも思えなかった。
 でも、立香が暗い顔をしているのは心苦しくて仕方ない。
――私は、先輩の力になりたい。
 十年前から今までずっと、立香に感謝していた。何度お礼を言っても「そんな大したことをしたわけじゃない」と笑われる。だけど、その「たいしたことじゃない」ことで、どれだけマシュが救われただろうか。
 母親が病没して、離婚していた父親の元に引き取られることになったときも、上手く付き合えなくて落ち込むマシュを立香はメールで励ましてくれた。毎年日本を訪れたときは、家族のように接してくれた。
 その恩返しをしたい。マシュは、握りしめた手をテーブルに乗せる。
「先輩――」

 ロンドンの日暮れは早い。夕方も四時を回るともう薄暗くなる。暗くなったら出歩かないようにとウェイバーから口を酸っぱくして言われているので、立香はマシュと分かれると足早に家に戻った。ウェイバーは当然まだ帰っていなかったのだが、立香がコートをハンガーに掛けて一息ついたころに彼もまた帰宅したのでさすがに驚いた。
「おかえり、ずいぶん早かったね」
「ああ。早めに切り上げてきたから」
 玄関まで出迎えた立香は目を丸くした。ウェイバーは、鞄の他にやたらと大きな荷物を持っていた。出かけるときにはそんなものを持っていなかったし、そんなものを持って行くわけがない。
「どうしたの、それ」
 思わず指さしたのは、大きな花束。送別会だか歓迎会だかあったのかと聞くと、ウェイバーは違うと首を振る。それどころか、
「これは、君に」
 花束を立香に差し出しながらそう言うものだから、さすがに絶句してしまった。花束は大きく、ずっしりとした重みが両腕にのしかかる。
「……どうして? ――あ、もしかして、福引きとかで当たったとか?」
 立香は笑う。だって、そんな事情でもなければこんなものをもらう理由がない。けれどウェイバーは静かに首を振ってそれを否定した。
「看病してくれて――ありがとう。迷惑をかけたお詫びとお礼で、その、何を贈ったら喜んでくれるのかわからなくて、花束を買ったんだが」
 相手の好みもわからずにこんな大きな物を贈るのは迷惑ではないかとウェイバーも懸念したのだが、如何せん、女性相手のそういう経験が絶対的に不足している。というか、ない。ないので、花は喜ばれなくても嫌がられることもないだろうし、明朝に家政婦に頼んで生けてもらえば立香の負担もないだろう……と、結論づけたのだった。
 立香は浮かない顔をしている。花は嫌いだっただろうか、ウェイバーは失敗を悟って苦々しさに眉を寄せた。
「そんなの……いいのに……」
 ウェイバーから視線を外したまま、立香が溢す。
「――迷惑だった?」
 思わず尋ねてしまって、ウェイバーは後悔した。迷惑だと言われたら、さすがに辛い。かと言って立香に気を遣われて「そんなことはない」と言われるのも堪える。
「そういうんじゃないの。そうじゃなくて……わたし、こんな立派なものを贈られるようなこと、してない」
 花束を抱きしめるように立香が身体を縮ませる。それが痛々しくて、ウェイバーは立香に笑いかけた。
「そんなことない。君がそう思っていても、私がそうしたいのだから、気にしなくていい」
「……気になるよ」
 立香は俯いた。鼻先がしっとりとした花びらに触れる。甘い香りを吸い込んで、立香はそれを振り払うように顔を上げた。
「どうしてウェイバーがこんなに優しくしてくれるのか、わからない。気になるよ、どうして? 恩人だって言うけど、やっぱりわたしには……」
 信じられない。
 立香がそう言いたいのだろうということはウェイバーにもわかった。信じてもらえないのは悲しいが、気持ちはわかる。だから、ウェイバーは何も言わなかった。何も言えずに、立香の言葉を待っていた。
 その立香だって、「信じられない」の一言を抑えたまではよかったけれど、「どうして」なんて問い詰めてしまった軽率さを恥じた。どんな答えが返ってくるかもわからないし、答えを聞いた後にどうしたらいいのかもわからないのに。けれど混乱しながらも、立香は口を開いた。それは問いかけというよりも、八つ当たりに近い物だった。
「ねえ、こんなに優しくされたら、わたし、ウェイバーのこと――好きになっちゃうよ? それでもいいの?」
 迷惑に違いない。ウェイバーはきっと友人として、善意で、立香をもてなしてくれているだけ。釣り合わないし、あまりにも何もかもが突然すぎて、信じられそうにない。
 でも、「君がいてくれてよかった」と言ったウェイバーを疑うこともできない。あの言葉は彼の本心だと思うし、自分がそれを聞いて嬉しかったことも、紛れもない事実なのだから。
 混乱する立香を前に、ウェイバーは一つ呼吸をした。深く、長い息の後、彼は穏やかに微笑む。

「いいよ。――そんなことで好きになってもらえるのなら、何だってするさ」

 周りの時間ごと、心臓まで止まったようだった。立香は思考停止しながら、鼓動がどんどんうるさくなっていくのを感じていた。
 ウェイバーは何を言っているのだろう? 疑問は浮かぶのに、思考が追いつかない。黙っている立香を余所に、ウェイバーは一人でつらつらとしゃべり始める。間が持たないのを誤魔化すように。
「もう気付いているかもしれないが――ボクはズルいんだ。ああ、君をここに連れてくる前に、君のことが好きだと言うべきだったんだろう。でも、そう言って断られるのが怖かった。卑怯者だと詰ってくれていい。けれど、君がボクのことをどう思っていても、君をここから追い出したり、まして閉じ込めて返さないなんてことはしない。それだけは信じて欲しい」
 深い色の目が、立香を見つめていた。針葉樹の森のような色をしていることを、彼女はこのとき初めて知った。
「君のことが好きだ。もちろん、女性として」
 彼の、目元が赤い。きっと自分はもっと真っ赤な顔をしているのだろう。
 なんだか悔しかった。ウェイバーはこんなにスマートなのに、自分は言葉を忘れてしまったかのように立ち尽くすことしかできない。きっと今までに何人もの素敵な女性と親しくなったのだろう。もしかして自分は箸休めか何かなのでは? ウェイバーが場慣れしているように思えたせいで、そんな邪推まで浮かんでくるし、それがどうにも信憑性が高い仮説に思えてきて、立香はいくらか落ち着いてきた。しかし落ち着いてくると今度は、ウェイバーがそんな性格の悪いことをするだろうか? という疑問が浮上してくる。
 結局、惨めだった。ウェイバーと自分を比べて落胆していることが惨めだし、そもそも同じ土俵に乗っていないのに比較しようとしている自分の思い上がりも惨めだった。
 そんな調子なので、立香は返事をすることなどまったく思いつかず、ただただウェイバーの顔を丸い目で穴が開くほど見ているほかできなかった。
「返事は、今、もらえなくてもいい。それに……ボクの感情を抜きにしても、今みたいに卑屈な物言いをする君を見ていられなかった。それだけは、友人として、ボクの嘘偽りない本心だ。……君がボクを好きになってくれなくても、それは……構わない。ただ君が、笑ってくれれば、それで」
 そこまで言うと、ウェイバーは急にバツが悪くなったような素振りでそそくさと自室へ歩いて行ってしまった。スリッパの音が遠ざかって、ドアが閉まる音がして、立香がようやく考えついたことと言えば、この家が土足厳禁なのはやはりウェイバーの日本暮らしが長いからだろうか、という的外れなことだけだった。

 昼間のことを思い出す。マシュが真剣な顔で語ったことを。
『私はその人が何を考えてそう言ったのかはわかりません。でも、その人も私と同じように、先輩に助けられたことをずっとずっと覚えていて、その恩返しがしたかったんじゃないかって、思うんです。先輩、先輩はいつだって誰にでも優しい人でした。私ほどじゃないにしても、みんな先輩に感謝してると思うんです。先輩がみんなにしたことが、先輩に返ってきてるんですよ。昔撒いた種が、芽吹いているみたいに。だから――』
 マシュに握られた手が熱い。
 そんなことないと言いたかった。あのときは、そんなつもりでやったわけじゃないと言いたかった。
『だから、みんな先輩を好きになるんです。友達として、女性として。
先輩は知らなかったかもしれないけど、高校のときから、先輩のことを好きな男の人はたくさんいましたよ? そのうちの一人が先輩の目の前にいても、ちっともおかしくはないと思います』
知らなかったよ、そんなの。
立香はその場にうずくまって、とうとう涙をこぼしてしまった。

『先輩、私は先輩の幸せを、ずっとずっと願ってました。だから、幸せになってください』

「……どうしたらいいの?」

 一方のウェイバーは、自室に戻った途端、震え始めた足を堪えきれずに椅子に深く腰を下ろした――というか、ほとんど崩れ落ちるようにして身体を沈めた。 手探りで机の上をまさぐり、煙草の箱を引き寄せる。一本だけ残っていたのを咥えたものの、火をつける気力もわかない。フィルター越しに空っぽの香りだけが舌の先を撫でていく。
 言ってしまった。
 片手で額を覆い、「ああ」と呻くように息を吐く。本当はもっとちゃんと準備をして、それなりの場所で、状況で、そういうものを整えた万全の状態で告げたかった。それも、時間をかけて立香の気持ちをなんとなく知ってから、そうしたかった。もしもそれが叶わなかったら、友人の顔のまま、ウェイバーは笑って立香を見送ろうと決めていた。二人で降り立った、ヒースローで。
 傷つくのが怖いから。迷惑だろうから。気を遣われるのは辛いから。
 想いを告げない理由はいくらでも思いつくし、そのどれもが理にかなっていると思っていた。

「……嘘だ」

――そんなことで好きになってもらえるのなら、何だってするさ。

 なんとなく知ってから、なんて、嘘だ。どうにか立香が滞在している間に、自分のことを好きになって欲しかった。手放したくないと思った。立香をロンドンに招いた結果、ウェイバーの想いだけがどんどん膨らんで手がつけられなくなっていく。
 人を好きになるという感情は、本当にままならない。ウェイバーはそんなことも知らなかった。こんな風に、相手の都合なんてお構いなしにぶつけてしまいたくなるほど暴力的な感情があることを、彼はこのとき心から痛感していた。