√HAPPY END 07

 何か、途方もない夢を見ていたのかもしれない。
 目が覚めたとき、ウェイバーは言い様もない喪失感と焦燥感に見舞われた。それまでこの手に掴んでいた何かを手放してしまったような、それがもう二度と還らないことを言い聞かされているような、撥ね付けたくなる不条理に似ていた。
「……は、」
 大きく息を吐くと、汗で張り付いたシャツの不快感が襲ってくる。これが現実であることは間違いない。ウェイバーはしばらくの間、薄暗い天井を見上げたまま頭の中を整理していた。
 風邪をひいた。熱もあった。喉が痛くて、昨夜から煙草を吸っていない。
(私の傍らで熱を測ってくれた彼女は、もしかして夢だったのだろうか)
 のろのろと、サイドテーブルに手を伸ばす。いつも通りなら、そこに煙草の箱とライターと灰皿があるのだが。
「あっ?」
 何か、やわらかいような硬いような、馴染みのある感触に指が触れる。それが何かを思い出すより早く、妙に弾力のある音とともに絨毯の上に落下していった。
「……」
 多分あれは、ペットボトルだ。中身は水だろう。ああ、そうだ。昨夜立香が置いていってくれた。グラスといっしょに。グラスのほうを落とさなくてよかった。
 ウェイバーはだらりと腕を投げ出したまま、笑いがこみ上げるのを堪えきれなかった。もしもグラスのほうが落ちていたら、落ちた衝撃で割れてしまっていたら、後片付けが面倒だった。ペットボトルのほうでよかった。立香が置いていってくれて、よかった。
 彼女がここにいることが、夢ではなくてよかった。

 ロンドン三日目、朝。
「あっ、えっ、うわっ!?」
 夢ではなかったと安堵するウェイバーとは対照的に、立香はウェイバーを見上げて目を白黒させている。様子を見に来たら当の本人が部屋からのっそり出てきたのだ、まあびっくりもするだろう。しかしそんな、幽霊でも見たかのようなリアクションは正直いい気はしない。
「おはよう」
「あっ、うん、おはよう……じゃなくて、もう起きていいの?」
 熱は? だるくない? 食欲ある?
 立て続けの質問に首を曖昧に振りつつ、ウェイバーは後ずさった。立香はそれを追って部屋の中に足を踏み入れる。
「ああ、平気だから、ちょっとそこをどいてくれ」
「なんで? 何か欲しいものあるなら持ってくるよ」
 色々用意してくれているのだろうか。さあ何が欲しい? と、立香は胸を張るのだが、今のウェイバーが渇望するのは飲み物でも食べ物でもない。
「いや……そうじゃなくて……ちょっとシャワーを」
 寝ている間にたっぷり汗をかいたせいで気持ち悪くてしょうがない。それに、これだけ汗をかいたんだからにおいもするだろう。立香が近づくのに合わせて後ずさるのは、そういういじらしい男心の現れだった。
「シャワー? ……やめといたら?」
 立香はどういうわけか、ウェイバーに同意しかねるようだった。こんなに気持ち悪いのになぜ、と、ウェイバーが視線で訴えると、
「汗かいて気持ち悪いのかもしれないけど、髪洗ってもそれじゃ乾かすの時間かかるだろうし、冷えてまた具合悪くなっちゃったらどうするの?」
「いや、もう平気だから……」
 立香の言うことは多分正しいのだろうけど、それはそれとして近寄ってくるのは勘弁してほしい。におうから、多分汗臭いから! しかしそんなことを言えば、立香は鼻をすんすんさせるに違いない。
(それだけは避けたい!)
 結局ウェイバーはろくに反論もできずに距離を詰められて、後ずさった結果ベッドに尻餅をついてしまった。どうやら言うことを聞いてもらえるらしい、とでも受け取ったのか、立香は満足そうに笑った。
「お湯汲んでくるから、それで身体拭くといいよ。着替えと、あ、シーツも換えたほうがいいかな……用意して待っててね」
 立香は言い残してさっさと出て行ってしまった。ほどなくして、水が何かに叩き付けられるような音が聞こえてくる。
「……はぁ」
 ウェイバーは観念して、クローゼットから換えの衣類を見繕う。あの調子では「今日は一日寝ていろ」とでも言われかねない、シャツとスラックスはやめてパジャマにしておこう。

 お湯を汲んできた立香は、サイドテーブルの上にそれを置くと今度はてきぱきとシーツの交換を始めた。案外手際がいい彼女の仕事を見ていると、怪訝そうな顔を向けられる。
「何だ?」
「……拭かないの?」
 言うに事欠いて……これにはさすがに、ウェイバーも閉口した。
「……君の前で?」
「あ――」
 みるみるうちに真っ赤になっているあたり、本当に考えなしに言ってしまったに違いない。
「ご、ごめんなさい! すぐ出てくからっ!」
 慌ただしくベッドを整えると、立香は昨夜のシーツをひったくるようにして、言葉の通りに部屋を飛び出してしまった。あまりの勢いに呆然としつつ、少しだけその動揺が寂しくもある。
 まあ、慣れているよりはずっといい。
 それより、せっかく汲んできてくれたお湯が冷めてしまう。ウェイバーは浸したタオルを軽く絞り、まずは顔を埋めるようにして拭いた。さっぱりする。ようやく人心地がついたような気がした。
 結局全身を拭き終わってしばらくしても、立香は戻ってこなかった。まかり間違って裸のウェイバーと鉢合わせでもしたら……などと考えているのだろうか。そう思うと、急に彼女が愛らしく思えて仕方がない。自然な風を装ってダイニングにでも行こうかと思ったが、結局ウェイバーは窓を細く開けて煙草を吸い始めた。
一日ぶりの煙草は、少し不味い。風邪をひいているのに煙草なんて吸ったら立香は自分を叱るだろうか。そんな思いつきすら、知らず彼を笑顔にしている。
 煙草を吸わなかった空白の一日、その間にこの部屋に増えたものだって同じだった。折り重なったタオル、ミネラルウォーターのボトル、奇妙に皺の寄った新しいシーツ――そのすべてを、彼は目を細めて見つめていた。
 煙草を一本吸い終わっても立香がやってくることはなかった。こうなるとウェイバーも焦れてしまうのだが無目的にダイニングに行くのも気が引けてしまい、結局、若干大きめに物音を立てながらトイレへ向かうのだった。そうすれば立香も気付くだろうと、そういう回りくどい振る舞いをするあたり、自分はまだあの頃のままのような気がしてならない。やれやれと嘆息しながら自室に戻ろうとすると、
「……何してるんだ?」
 立香がいた。どういうわけか、大きな土鍋の乗ったトレイを持って。
「ああ、ちょうどよかった……!」
心の底から「助かった」と言いたげな視線がウェイバーとドアを交互に見ている。両手が塞がっているのだ、開けろということだろう。それに異存はないのだが、その土鍋は何なのか。
「ずっと寝てたからお腹すいてるかなって思って……」
 滅多に自炊しないウェイバーだって土鍋の中身が食べ物だろうことは予想している。それにしてもどうしてこの家に土鍋があるのかはウェイバーも与り知らないところではあるが、大方元の所有者である両親――特に、日本生まれで日本育ちだった母親のほうが使っていたのだろう。両親ともに仕事人間だったけれど、もしかしたら子供の頃、ウェイバーもこんな風に母親に看病されていたのかもしれない。あるいは、看病されたかったのかもしれない。思い出せないのか、そもそもそんな過去がなかったのか。ウェイバーには、それすら定かではなかった。
 ウェイバーがサイドテーブルから物をどかすと、立香がそこにトレイを置く。そこまで大きくないテーブルは、土鍋の蓋を並べるとそれで手一杯になる。
「美味しそうなにおいだ」
「ほんとう?」
 嘘を言ってどうなるんだとウェイバーは笑うが、立香はほっとしたような、泣き出しそうな顔になる。
「だって、においだけかもしれないよ?」
「それは逆にすごいんじゃないか」
 これだけいいにおいをさせておいて不味かったりしたら、それはそれでどうしてそうなるのか知りたい。立香はもちろん味見はしたと言うが、それでも不安そうな表情を浮かべている。
「口に合うか、わからないから……」
ウェイバーが覗き込むと、土鍋の中身は粥だった。米だけのシンプルなものではない。黄色いのは卵、色鮮やかな緑と橙は、ネギとニンジンだろうか。見た目の華やかさもあって、病人食とは到底思えない。
「料理したのすごく久しぶりだから、美味しくなかったらごめんね」
 カフェオレボウルを取り皿の代わりにして、立香は粥を掬ってはよそう。立ち上る湯気は、ウェイバーの鼻先に出汁の香りを運んだ。どこか懐かしい気がして、泣き出したくなる。差し出されたボウルと匙を目の前にして、ウェイバーは一瞬、息をするのも忘れていた。
「……食べさせた方がいい?」
 いたずらっぽく言われて、我に返る。ウェイバーは慌てて首を横に振るがもう遅い。使命感にでも駆られたのか、立香は匙をボウルに突っこんで一口分掬い、ふうふう吹いて冷ましている。
「いや、いいから、自分で食べるから」
「まあまあ、いいじゃない、今くらい甘えちゃいなよ」
 それは甘えるとは言わないんじゃないか。ウェイバーは手を伸ばして卵粥を奪おうとするが立香は器用にそれをかいくぐり、
「はい、あーんして」
 ニンマリとした顔でウェイバーに匙を向ける。ダメ押しのようにもう一度「あーん」と言われて、ウェイバーは観念した。正直、バカップルっぽくて恥ずかしくはあるけど悪い気はあまりしなかった。
 開けた口を匙に近づけると、言い出しっぺの立香のほうが少し及び腰になる。それでもおずおずと匙を口に含むのにつっかえることはなかった。滑らかな粥が舌の上に広がる。ふわっと溶けていくほのかな塩味の中に、生姜の風味が混じっていた。
「熱くない?」
 ウェイバーは頷く。
「……おいしい?」
 もう一度、頷く。
「うまい」
 口に出すと、立香は「よかった」と顔をほころばせた。それで味を占めたのか自信を得たのか、次の一口も食べさせようとするのでさすがにそれは止めさせる。立香はやや残念そうな顔をしつつも、大人しくウェイバーにボウルを明け渡した。
「うまいんだな」
「え?」
「いや、料理がうまいんだなと思って。だから家事をやるなんて言ったのか」
 今となっては立香の申し出を断ったのが惜しまれるようで、ウェイバーは粥をちびちびと口に運ぶ。しかし立香本人はそんなことはまったく意図していなかったと手のひらを顔の前で振った。
「そんなわけないよ。料理上手なんて言われたことないし、それでお金もらってるような家政婦さんとは比べものにならないでしょ」
 謙遜なんかではなく、本心からの言葉だった。そういうものだろうかと、ウェイバー深く追求しなかった。料理については門外漢もいいところなので下手に口出しをして墓穴を掘りたくはない。さしあたり、卵粥が美味しくて、それを立香に伝えられればそれでいい。
「ねえ、キッチンにリンゴがあったけど、食べる?」
 立香の方もこの話はこれで終わりとしたのか、食後のデザートを勧めてくる。リンゴなんて適当にやってくれて構わないのにと予想外の奥ゆかしさに面食らいながらウェイバーは「食べる」と頷いた。
「よかった。食欲もあるし――熱ももう下がったね」
 笑いながら立香は、手のひらをウェイバーの額に当てた。それは一秒にも満たないような僅かな間だったというのに、彼女の手が離れてもしばらく、ウェイバーは身動きもできなかった。ようやく息を吐いたときには、すでに立香の姿はない。
「……」
 匙を持ったままの右手で、ウェイバーは頭を抱えた。
 そういうのは、反則じゃないか。

 空腹だったのは事実だが、半分は自棄と意地でウェイバーは土鍋を空にした。おかげでリンゴは半分も食べられなかったが、立香が残りの半分を美味しそうに食べていたので結果オーライ、なのだろう。
「ごちそうさま」
 腹が膨れると気持ちが落ち着く。ウェイバーはマグカップの中身を口に含んで、少し渋い顔になった。中身は蜂蜜とレモンをお湯で割ったもの。先ほどは熱も下がったなんて言っていたが、立香の中ではまだウェイバーは病人のままらしい。昨夜からずいぶん迷惑をかけたのだからその判断くらいは甘んじて受け入れるが。
「……すまなかったな」
「なにが?」
「何から何まで世話になってしまって……君を家政婦扱いするつもりはないと言ったのに、申し訳ない」
 うっかり風邪をひくなんて返す返す情けない。落ち込むウェイバーを見かねたわけではないが、立香は穏やかに笑った。
「こんなの全然、たいしたことないよ。同じ家に住んでる人がダウンしてたら、面倒見るのは当たり前でしょ?」
「まあ……そうかもしれないが……」
「かもしれない、じゃなくて、そうだよ。それに、謝られるよりありがとうって言われる方が嬉しいな!」
 冗談のつもりか、立香はいたずらっぽく笑うので、それはそうだとウェイバーもつられて笑ってしまった。こうして人を明るい方へ引っ張っていくのは、十年前から変わっていない。
「ありがとう。君がいてくれてよかった」
 それは紛れもない本心だった。今だけじゃない。十年前のあの日、立香がいてくれたから、すべてが動き出した。あそこにいてくれたのが立香でよかった。十年間、ずっとそう思って生きていた。
 ウェイバーはそこまで言葉にしてはいないが、立香は静かに俯いてしまう。
「どうした?」
 気を悪くしたのかと心配したウェイバーが覗き込むと、立香は両目に涙をにじませていた。ぎょっとして身を強張らせるウェイバーに、立香は慌てて否定する。
「あ、ち、違うの! ただうれしくて……いてくれてよかったなんて、言われたの、初めてで……」
 誰かに必要とされるなんて、いつぶりだろうと立香は眦を拭う。
 その様を見つめるウェイバーの心はひどく落ち着かなかった。
 きっと、この十年間に立香だって色々なことがあったのだろう。それを根掘り葉掘り聞き出そうとは思わないし、心のどこかでは聞きたくないとも思う。ただ、立香にはここで穏やかにいてほしかった。満たされない彼女の心を、少しでも癒やしたいと願った。そのために何をどうすればいいのかウェイバーにはわからない。思いつきでロンドンまで連れてきて、どうするつもりなのか今だって考えつかない。
 それでも――それでも立香に笑っていて欲しい。泣き顔じゃなくて、笑顔を見せて欲しい。あの日自分に向けてくれたように。
「君がいてくれてよかった、そう思っているのは、君が看病してくれたから、それだけじゃない。ずっと前から――そう思ってる。ありがとう、立香。君があの日声をかけてくれたから、ボクには友達ができた。ずっと……そのお礼を言いたかったんだ」
 つっかえながらそう伝えたとき、ウェイバーはやっと、胸のつかえが消えたような気がした。きっと十年前に現れて、いつの間にか大きな気がかりになっていたもの。それがようやくなくなった。
 それなのに、今度はもっと大きなものが入れ替わるようにそこに出現する。きっと口に出したら楽になる。ぶちまけてしまえばすべてがはっきりする。わかっているから、言えない。
 友達だと笑ってくれた立香を失いたくはない。
「もう……大げさだなあ……」
 泣き笑いのような顔の立香に、本当は手を伸ばしたかった。そうして抱きしめて――

 そんなことをして、拒絶されたら?

 蜂蜜とレモンの後味が苦い。ウェイバーは、曖昧に笑うことしか選べなかった。