√HAPPY END 06

 ウェイバーと立香が揃ってイギリスに渡ったのは、年が明けて一週間ほど経った日だった。その日はちょうど雪が降っていて、ウェイバーの住む家に到着したのが深夜で、ついでに時差ぼけのせいで寝付けなくて、とどめに環境の変化というものがあったから、風邪をひいてしまったのだろう。
 ほかでもない、ウェイバーが。

 ロンドン二日目、夕刻。
「37.8℃……風邪だね」
 立香は心配そうに眉を下げる。彼女が腰を下ろしているのはウェイバーのベッド脇まで引っ張ってきた書斎の椅子だ。体温計を仕舞う立香を、彼は恨めしそうに見ていた。
「きっと疲れてたんだよ。仕事、忙しいんでしょう?」
 日本に行くために先んじて仕事をある程度片付けていたのは事実だ。そのために一週間ほど、いつもよりかなり遅くまで職場に籠もっていたのも事実だ。そしてそれを何の気なしに立香に話したのも事実だった。
「……寝てれば治る。うつるから、」
 出て行け、と、片手をひらひらさせているが、力がまったくこもっていないところや出て行けの一言が言い切れないあたり、熱で弱っているのが見て取れる。それにしても――立香が風邪を引くならまだしも、自分がこうなってしまうのはウェイバーにとっては情けないの一言だった。
「寝てれば……って、そんな……ねえ、病院――」
 病院で薬を出してもらってさっさと治せばいいのに。そう言いかけたのだが、こちらでは医療制度も日本と違うのだろう。アメリカみたいに信じられない治療費をふっかけられるのかもしれない。ウェイバーが渋る理由は定かではないが、ここでは自分のほうが異分子。それに、家主の言うことなのだから口出しするのも筋違いな気がする。その家主だって立派な成人男性だ。駄々をこねる子供ではない。
「……わかった」
 一に休養、二に栄養と風邪薬のCMが言っていたことだし、眠れば確かに体力も回復するのは間違いない。ついでに立香まで風邪がうつってしまったら、現状二人きりの家で看病する人間がいなくなる。それは、まずいのではないか?
かといって、見た感じ意識が朦朧としているウェイバーを一人っきりで寝かせるのもどうだろうかと躊躇われてしまったが、ウェイバーだって近くに他人がいては気が休まらないだろう。どっちかというと一人でいるのが好きそうなイメージだし。
 と、結論付けて、立香はウェイバーの枕元に彼の携帯端末を置いた。
「何かあったら知らせてね。すぐに行くから」
 立ち上がったついでのようにして、布団を顎の下まで上げてやる。さらについでに、額にかかった前髪も指先でそっとかきわける。一瞬だけウェイバーが目を細めた理由は、立香にはわからない。
「じゃあ……おやすみなさい」
 サイドテーブルにはミネラルウォーターのボトルとグラスを用意した。タオルも数枚重ねて置いている。それ以外で入り用なものがあれば連絡してくれるだろう。
 布団に鼻先まで埋もれたウェイバーが小さく頷くのを見届けて、立香は照明を落とした。
 ドアが閉じられると、部屋が静寂に沈む。時折外から届くヘッドライトの細い筋が、何かに似ていた。
 本当は――本当は少しだけ、寂しかった。ずっとそこにいてほしかった。そっと触れたように髪に頬に、触れて欲しかった。眠りについた後も、この手を握っていてほしかった。
 それを言わなかった理由はなんなのだろう。意気地がないから? 彼女から「迷惑だ」と拒絶されるのが怖いから?
 半分は、そうなのだろう。でも、もう半分は違っていて欲しい。自分も年を重ねた。自分の都合だけを考えて生きているわけじゃない。立香に風邪をうつすのは避けなければならないし、自分の看病を押しつけて、休ませないのも心苦しい。もう独りよがりの感情を押しつけたくはない。大切な人なのだから。
 ウェイバーは、そう振る舞えたことが嬉しかった。間違ってはいないと理性が納得しても、一抹の寂しさはあったが。


「さて……」
 立香のほうはといえば、キッチンの中で腰に手を当てて首をひねっていた。目下解決すべきは自分の空腹感である。なにせ夕刻にウェイバーがふらふらし始めてから寝床に押し込むまで二時間ほど押し問答をしていたものだから夕食を食べるどころか準備もしていない。ウェイバーは食欲もなさそうだったが健康体の立香はそうはいかない。おまけにこの状況、自分だけは万全な体調を維持しなければ。
「材料はあるんだよね……お昼間に買い物に行ったから」
 思えば雪の中、無理を言って歩いて買い物に行ったのがいけなかったのかもしれない。いや、多分それが原因だろう。雪が積もった街並に目移りしてしまい、おそらく行き帰りの所要時間は当たり前に歩く倍はかかっただろう。ウェイバーは呆れながら笑っていたが、内心うんざりしていたに違いない。
「申し訳ない……」
 この場にいないウェイバーに謝罪しつつ、しかしあのウェイバーが表向きは文句も言わない程度に外面というものを身に付けたのかと思うと感慨深い……と、言えるほど、立香はウェイバーのことをよく知らない。この十年間に何があったのかも知らないし、十年前だってそんなに親しかったわけではない。
 そう考えると、今ここにいるのが尚更不思議だった。渡航と滞在を決めたのは間違いなく自分の意志だが、それでもふとした瞬間に足下の不確かさみたいな不安を感じてしまう。
 相変わらずウェイバーの距離感はよくわからなくて、立香に貸している客間には内鍵があるし(まあ、異性なので当然と言えば当然だが)、バスルームもランドリーも客間のほうのを一人で使っていいと言う。構造的には違うけれど、離れのあるお屋敷のみたいなものだろうか。いわゆる平均的一般家庭で生まれ育った立香にはよくわからない。ともかく、同じ屋根の下にいてもそのあたりはきっちり分けているあたりから、ウェイバーの意図する距離感を図るしかないだろう。立香は幾ばくかの寂しさを感じつつも、やはり居候の身なのでそれを飲み込むだけだった。
 キッチンの収納を一つずつ確認する。シンク下には重そうな鍋がいくつも。引き出しの中にはよく手入れされた器具が綺麗に並んでいる。流しの中も曇りなく磨かれているし、きっと通いの家政婦とやらによるものに違いない。まさかウェイバーが自らここまでするとは思えないので、その結論にたどり着くのは当然だった。ちなみに家政婦はウェイバーの旅程に合わせて明日まで休暇らしい。

――だったらもう少し休んでもらえば? その間はわたしが家事やるし、宿代代わりに。そうしたらウェイバーだって、ちょっとくらい安上がりになるでしょう?
 これぞWin-Win、我ながらなんと素晴らしい思いつきだろうか、などと自惚れながらの提案は、しかし見事に却下された。
――そういうわけにはいかない。私は君を召使いにするために我が家に招いたわけではないし、家政婦だってそれで生計を立てているのだから、いたずらに仕事と収入を減らすようなことをするわけにはいかない。
 まったく正しかった。特に後半。いつも通りに働こうとしたのに「代わりがいるから結構です、もちろん賃金は払えません」なんて言われたら誰だって困る。自分の都合だけを押しつけた物言いが恥ずかしくて、立香は「そっか……」と頷いたきり何も言えなかった。
――ホテル代わりにしろと言ったのは私だ。だから、思う存分くつろいで欲しい。上げ膳据え膳で、そういう贅沢をしたっていいじゃないか。人生の夏休みというか……今は冬か……人生の冬休み……?
 ウェイバーは最後だけ、少し居心地が悪そうに言い聞かせる。季節がいつだって、そういうときは人生の夏休みって言ってもいいんじゃないかな、と、立香は小さく笑った。

 飛行機の中でのやりとりを思い出して、やっぱりウェイバーがここまでしてくれる理由がよくわからない。恩返しだなんだと言うけれど、それにしてはちょっと――かなり、過剰だと思う。立香が「せめて旅費くらい自分で出すから」と言っても頷いてくれず、何度も押し問答をしてやっと折れてもらったくらいだ。その旅費だって安くはない。むしろ高い。ちなみにエコノミーでも高かったのに、ウェイバーがカウンターのお姉さんに向かってビジネスクラスを指定するものだから卒倒するところだった。(なお、情けないことに差額分はウェイバーが特典マイルで出してくれた。非常にありがたかった。)
「なんでだろうなあ……」
 ウェイバーに何のメリットがあるんだろう。と、立香はシンク下から鍋を取り出しつつ呟く。食い倒れに食事をごちそうしたお礼に採用してくれたという件の社長に感化されたのだと彼は嘯くが到底納得できない。ありえないとは思うが何か犯罪にでも巻き込まれるのではとも疑ったが、だったら出発前に立香の家族に(簡単にとはいえ)挨拶し、連絡先一切を伝えていくのも不自然だ。
 残る可能性、というほどのことでもないが、一つ浮かんだのは、悪く言えば「下心」。
 しかし、それは真っ先に打ち消される。だってウェイバーのスペックで女に困るわけがない。まかり間違って立香にそういう気持ちを抱いているのなら、さっさと伝えてくるに決まっている。彼が断られる可能性を心配するなんて考えられない。昼間もグローサリーストアで迷うことなく「米ならこれにしよう」と魚沼産コシヒカリ(極上)を値段も見ずに手に取ったハイスペック男が、取るに足らない女相手にうじうじ悶々悩むわけがない。なにせ十年前の夏だってあんなに自信満々に告白していたことだし。
 ふと、笑みが浮かぶ。
「懐かしいなあ」
 ウェイバーには悪いが、あれはきっと一生忘れられない。忘れられないからと殊更口にしてからかうつもりは毛頭ないけれど、ああいう甘酸っぱい、いわゆる青春の一コマみたいなものは、立香の心を慰めてくれる。あの思い出だけじゃなくてもっとたくさんの光景たちが、いつまでも立香の心を捉えて放さない。
 刹那的に日々を生きていた。けれど、その先の未来にはいくつもの可能性が開かれていると信じてやまなかった。
 それらの一つずつを無意識に潰してしまった今は、あの頃を懐かしみ、未練がましく過去に縋ろうとする自分を必死で鼓舞することしかできない。それでいつの間にか疲弊しきっていたのだろう。過去がどうあれ今を必死で生きなければと、理解しているのに立ち止まってしまいたくなる。後ろを振り返って、叫んでしまいたくなる。
 ウェイバーとの再会はそんな時だった。色を失っていた思い出が、息を吹き返したように鮮やかに蘇る。彼は変わった。背も高くなって、髪も伸びて、声も低くなって……彼の第二次性徴は極端に遅かったのだろうかと首をひねったのはさておき。
 ウェイバーが自分のことを覚えていてくれたのは嬉しかった。関わりがあったのはほんの僅かな間だったのに、わざわざ呼び止めてくれるほど覚えていてくれて、本当に嬉しかった。
「そっか……」
 漫然と過ぎていく日々に、突然現れたウェイバーという存在。今になって気付いた。自分は期待していたのかもしれない。彼と関わることで、ロンドンを訪れることで、自分の中の何かが変わるのではないだろうかと。
「変われたら、いいな」
 いつかの自分が望んでいたような自分になれたら。立香はあまりにも漠然とした願望を笑い飛ばし、シンクの上に並べた食材を前に腕まくりしてレシピを考え始めた。どうせ作るなら一人分より二人分。ウェイバーも食べられるものにするなら、消化のいいものに。
「うーん……おかゆ……雑炊……?」
 作り方を思い出しながら調味料の棚を開ける。自分で料理をするのが何年ぶりなのか、彼女自身ももう覚えていなかった。
 変化は少しずつ、けれど確かに――起こっている。