√HAPPY END 05

 家族が寝静まった家のドアをそっと開けて、立香は忍び足で自室に身を滑らせる。照明のスイッチを押すと、静電気のような音とともに夜に似つかわしくない白い光が部屋を満たした。
「はぁ……」
 とりあえずコートだけを脱いで床に放り、自分はベッドにダイブする。暖房も入れていないと冷えそうなものだが、立香は寒さを感じなかった。
 今も、あの腕に抱きとめられている気がする。
 遅くなったからとウェイバーは理由をつけたけど、きっと出会ったのが昼の十二時であっても、ウェイバーは立香をタクシーで家まで送り届けたに違いない。その優しさと気遣いに感謝するより、他人に対してそういうものを向けることができる「余裕」のようなものが羨ましかった。そう感じてしまう自分が嫌だった。このところ、心身ともに切羽詰まっていたことを自覚させられるようで、そんな仕事さっさと辞めなさいと言ってくれる家族や友人が正しかったのだろうと身につまされた。
「――情けない」
 ごろんと寝返りを打って呟く。枕が化粧で汚れそうだけど、昼間一度も化粧直しをしていないのだ、ほとんど剥げてしまったに違いないと自嘲する。休憩の時間もろくに取れない職場はいつも張りつめている。三か月前に入ったころから数キロ太ったような気がしたが、体重計に乗るのも億劫で何もしていない。そうやって、現実から目を背けている。
 ロンドンに来ないか。
 ウェイバーはそう言った。渡航費無料、宿代無料、あの調子なら多分、向こうでの滞在費もほぼ持ってくれるに違いない。いくら同級生とは言え、そこまで親しかったわけではない彼がここまでしてくれるのは申し訳ないが疑わしかった。疑わしいが、かといって立香ごときをだまくらかしたところでウェイバーに何のメリットもあるとは思えない。強いて言うなら内臓? まさか。
 そうすると、ほとほと信じられないのだが、ウェイバーは徹頭徹尾善意100パーセントで立香をロンドンn日間(nは1以上の任意の自然数)の旅に誘っていることになる。
「信じられん」
 これが高校生の時だったならば、ホイホイついていったに違いない。が、さすがにもういい歳の大人。上手い話には裏があるケースなんていくつも見聞きしたし、タダより高いものがないこともよく知っている。
 ああでもロンドン、いいなあ……。
 イギリスは大学の卒業旅行の候補地の一つだった。結局バイト代を貯められなくて、言葉は悪いが妥協して近場の香港に行ったのもかれこれ5年前になる。香港は確かに楽しかったのだが、人間、未練のあることはいつまでも執着してしまうものである。いつかはお金を貯めてイギリスへ。長年そう決めていた矢先にこの話なのだから、立香がいつまでも迷ってしまうのも彼女としては当然のことだった。
「よし」
 ウェイバーは年が明けるまで日本にいると言っていた。もう少し、彼のことを知って、それから判断しよう。一つ目の迷いが吹っ切れると、途端に疲労が襲ってくる。おまけにアルコールの力もあってか、立香の四肢にはもう起き上がる力もなかった。布団を持ち上げて、かぶり直す他には。

「行く、ロンドン」
 明けて二日後の午後、いつぞやの喫茶店でテーブルを挟み、立香は開口一番にロンドン行に同意した。編み込みで髪をまとめた頭がぺこりと下げられて、リボン風のヘアアクセサリーが揺れる。ウェイバーは、少しだけそれを視線で追いかけた。
「なのでお世話になります……とは言ってもなんでもかんでも甘えちゃうのは申し訳ないから、チケットは自分で取るね。滞在は……正直泊めてもらえるとありがたいんだけど、食費なんかは出すから! あと掃除とか洗濯とか、そういうのはわたしにさせて」
 おまけに自分なりに考えてきたのか滞在プランも紙にしたためてきている。それはいいのだが、さすがにこうまで思い切りがいいとは予想しておらず、ウェイバーはしばし呆気にとられた。
「どうしたの?」
「いや……」
 おまけにアルバイトも辞めてきたと言うのだから思い切りがいいなんてレベルではない。立香曰く「雰囲気悪いから辞めるって言ったら責任者と大ゲンカしてその日(※昨日)でクビになった」らしいが、一昨日の夜に言っていたのはなんだったんだろう。多分、ウェイバーを心配させまいと嘘をついていたのだろうが。そうでなければこんなに清々した顔のわけがあるまい。血色がいいのは陽の光のもとだから、それだけじゃないのだろう。いいことなのだが。
 ブラックのコーヒーをすすりながら、ウェイバーは何とも言えない顔をした。それをどう勘違いしたのか、立香は「砂糖とミルクとってくる?」と腰を浮かしかけるので片手で制する。正直立香が飲んでいるクリームだくのなんとかいう飲み物を見ているだけで胸やけしそうなのだから勘弁してほしい。
「思い切りがいいなと思って、ちょっと驚いただけだ」
 立香はウェイバーから評されて、少し困ったように笑った。
「そうでもないよ。ちょっと悩んだし。……ウェイバーはマシュのこと知ってるかな? 一つ下の学年にいたんだけど」
「……? いや?」
 心当たりがない。そんな名前の子があの学校にいたとしても、ウェイバーが知っているわけもなかった。
「友達なんだ。今はイギリスにいるの」
 その友人と昨夜通話していたのだと言う。なるほど、友人がいるのならイギリス行きの後押しになったというのもわかる話だ……と、ウェイバーは訳知り顔で勝手に納得しているのだが事情はもう少し入り組んでいた。

「先輩、お久しぶりです!」
 画面越しとはいえ、マシュと顔を合わせるのは久しぶりだった。家に帰りついて早々にパソコンの前に来てくれたのか、マシュの首には大学のIDカードが下がったままだ。
「久しぶり、マシュ。元気にしてた?」
「もちろんです」
 にこにこしているマシュを見ていると、気持ちがあたたかくなる。一つ年下の彼女との付き合いは遡ることこれまた10年になる。平たく言うと高校時代の先輩後輩の関係だ。家庭の都合もあってイギリスの大学に進学したマシュは、それでも毎年一度は日本を訪れる。そのときはかならず立香の家に泊まるので、立香にとっては友達・後輩というより遠く離れた家族みたいな気がしていた。
「それで、ご相談とはなんでしょう?」
「うん、さっそくだけど……」
 立香はウェイバーからもらっていた名刺をカメラに掲げ、事の顛末を話し、マシュに「どう思うか」を尋ねた。
「あ、その会社なら知ってます。とても有名ですよ。悪い話は全然聞きませんし」
 なんと。さすが現地人。遠く離れた日本からウェブ検索したところで英文の結果しか出てこず、おまけに掲載されていた文章をまったく判読できなかった立香はマシュに感謝した。
「そっか、有名なところなら安心していいよね」
 ウェイバーを疑っているわけではないが、少なくとも妙なところに勤めていないのなら、ある程度は信用できるだろう。安直と言えば安直な思いつきに、マシュは苦笑する。
「一概にそうとも言えないとは思いますが……え、なんですかお父さん、え?」
 と、カメラに誰かが映り込む。座っているマシュの斜め後方から近付いてきたらしい人影は、背が高くてお腹のあたりしかフレームインしていない。お父さん、と言っていたからその通りなのだろう。マシュは勤め先というか所属している大学近くの家で父親と暮らしているらしい。帰宅早々に娘が日本語で会話をしていたら気になるのが親心、だろうか。父と話をするためにヘッドセットを外したのか、マシュと父親らしき男性の会話が遠くに聞こえる。もっとも、直に聞かされたところで英語の会話など立香にはちんぷんかんぷんだからどちらでも同じだった。
「わかりましたから……もう、勝手に入ってこないでください……すみません先輩」
 怒っているのか困っているのかよくわからないマシュが戻ってくる。
「あ、いいよいいよ。お父さん何か用事?」
「いえ、そういうんじゃなくて……その、父がその人に会ったことがあると……」
「へっ?」
 マシュの父親は確か銀行に勤めていると聞いたことがある。銀行員なら、企業への融資とかなんとかあるだろうし、打ち合わせの場に弁護士がいてもまあおかしくはないのかもしれない……と、立香は素人なりに考えをめぐらせる。そうでなくても同じイギリス、同じロンドン、仕事がらみじゃなくても何かをきっかけに知りあう可能性はゼロではない。
「そうなんだ……世間って狭いねえ」
「本当ですね……」
「お父さん、なんて?」
 自分よりもずっと長く社会で働いて、人を見る目だってそれなりにあるに違いないマシュの父親からはウェイバーはどう見えたのだろう。今回のことを抜きにしても、あのウェイバーが大人になって、ビジネスの場でどんな振る舞いをしているのかはとても興味があった。
「何の参考にもならないと思いますが……交渉相手として相当手強かった、だそうです」
「ふーん……」
 確かに、申し訳ないが今回の場合はどちらかというと参考にならない情報だ。強いて言うなら、仕事熱心な人物、程度のものか。
「真面目な方ってことじゃないでしょうか」
「まあ、そうかもねえ」
 実際高校生のときは成績優秀だったし、真面目と言えば真面目なのだろう。頬杖をついて過去を懐かしんでいると、マシュが前のめりになる。
「先輩、遊びに来てください。もし何かトラブルがあっても、私がいます。うちも部屋は開いてますから、お好きなだけうちにいてください」
「マシュ……」
 なんて優しいのだろう。それにカワイイし頭もいい。こんなにできた子が自分の後輩なんて何かの間違いなのではとすら考えてしまう。そんな風に無意識に自虐的になるのが、立香はたまらなく嫌だった。昔はこんなことなかったのに。やっぱり心労のせいだろうか。ここは命の洗濯とやらをするべきなのでは?
 悶々と考えていると、マシュの子犬のような目と視線がぶつかる。こんな良い子に心配をかけるなんて、申し訳ないにもほどがあるというもの。
 立香の心は決まった。ウェイバーがもし腹に一物あるのなら、申し訳ないがマシュ(と彼女のお父さん)を頼ろう。

 当の本人は自分のあずかり知らぬところでそんな話があったとは知らず、苦そうなコーヒーを時折口に運んでいる。ただコーヒーを飲んでいるだけでサマになるし、ちらほらと近くのテーブルから女の子たちの視線を感じる。両親がイギリス人と聞いていたしやはり人種の差だろうか……と、立香は大切なことを思い出した。
「あのさ、」
 呼び掛けられたウェイバーは、いやに真面目な顔の立香に眉を片方だけ上げた。
「今更なんだけど……残念だったね、お父さんとお母さん」
「……ああ」
 軽く伏せられた瞼に倣い、ウェイバーもうつむきがちに目を伏せた。
「ほんとは一昨日、言うべきだったんだろうけど」
「いいよ、もう十年も前のことだ。……ありがとう」
 正直に言うと、当時のことはあまり覚えていない。ショックのせいかもしれないし、単純に月日が流れたせいかもしれない。けれど、もうずいぶんと昔のことに思える出来事を、立香が心に留めてくれていたのはうれしかった。
「突然だったもんね。みんなどうしたのかなって、心配してた」
「そうか……」
 ありがたい話だ。これまでに何度か開催された高校の同窓会でも話題には上っていたらしい。大方世界史を取っていたお人好しの連中がクラスが違うにも関わらず気にしてくれていたのだろう。しかし携帯自体を日本に置き忘れて、しかもおそらくは処分されている以上ウェイバーと連絡を取ることは誰にもできないことだった。
「じゃあ、次の機会があれば伝えておいてくれ」
 自分はおそらく参加できないだろうから、と言うと、立香は少しさみしそうな顔をした。同窓会はだんだん集まる人数も減り、今年はとうとうやらなくなったのだと言う。
「しょうがないよね。みんな、いつまでも高校生じゃない。今の居場所があるもの……」
「……」
 それは、そうだろう。しかしその口ぶりには諦めのようなものが滲んでいて、ウェイバーは息苦しさのような悲しみを感じた。十年という時間は、あんなに明るかった立香にこんな声音をさせるものなのだろうか。
「そうかもしれないが、私は、君と今こうしているのが……楽しいが」
 口に出しては言わないが、おまけにこちとら十年間分の未練をひきずってここにいるのだから。まだ高校時代にしがみついているのかなんて言われたら、相当堪える自信がある。
 半分以上自信のないおそるおそるの言葉だったが、立香はふにゃりと力なく笑う。
「そうだね、わたしも楽しいよ。ウェイバーに会えてよかった」
 それはこっちの台詞だ。奇跡に近い偶然だったけれど、君に会えて本当に嬉しい。
 と、言いたかったのだが、ウェイバーは立香に遮られた。
「そういえば……どうして日本に来たの? お仕事?」
 問われてはじめて、ウェイバーもそれを話していないことに気がつく。なんとなくこれまでの流れだと立香に会いに来たように取られかねないようで、ウェイバーは本来の目的を説明した。
「いや、昔世話になった人たちがいるんだ。向こうに来てくれたりはしたんだけど、夏に身体を悪くしたって聞いてね。それで顔を見せに来たんだ」
「えっ、大丈夫なの?」
 お人好しさは健在らしい。身を乗り出してくる立香が微笑ましかった。
「ああ。よくよく聞いてみたら軽い熱中症で倒れて数日入院したって話だった。ずっと治療が必要とか、そういう重篤なものじゃない。ただ……」
 大きくなったなあと、目を細めて喜んでくれた人。皺の重なった手のひらで、ウェイバーの手を慈しんでくれた人。
「あの人たちもずいぶん歳を取ったから」
 心残りがないようにしたいとウェイバーは薄く微笑んだ。
 親しい人を亡くしたからこそ出てくる言葉に、立香の鼻の奥がツンと痛くなる。
「そっか……」
「まあ、昨日会った感じじゃすごく元気そうだったけど。相変わらず屋根なんか上るし……止めるのが大変だった」
「そ、そう……」
 そりゃ大変な御仁だと立香はたじろぎつつ、笑う。口ぶりから察するに老人と思しきかの人を、天窓から必死で呼びとめるウェイバーを想像する。案外、世話焼きなのかもしれない。
「うんうん。ウェイバーは優しいね」
「……なんだ、いきなり」
「だって、そうじゃなきゃいくら友達でも、簡単に家に泊めたりしないでしょ?」
 友達。
 よろこぶべきなのか、惜しむべきなのか。いや、ウェイバーが決定的な一言を言っていない以上、察しろと言うのもあまりに傲慢だ。十年の時を経ても、変わらず友達と言ってくれる僥倖に感謝すべきなのだろう。
「さあ? どうだろうな。帰る間際になって請求書を突きつけるかもしれんぞ?」
 それでも少しだけ意趣返しをしてみたくなる。思った通り、立香が必死の形相で「後出しはナシ!」と訴える。ウェイバーは、少しだけ胸がすく思いだった。

 ウェイバーに対して試すようなことを言ったつもりだった立香は、安堵しつつも僅かに落胆していた。
「先輩、その人はその……先輩のことが好きなんじゃないですか?」
 マシュがこんなこと言うからだ。絶対違うって言ったのに、
「まあ、嫌いではないと思うよ? 人の好き嫌い激しそうだし」
「何気に辛辣ですね……いえそうではなく、女性として好意を持たれているのでは?」
 こんなこと言うからだ。
「ええ~? いや、それはないんじゃない? それに、もしそうだとしたら、ズバッと言っちゃえばいいのになんで言わないのよ、まどろっこしい」
「そうでしょうか……」
 マシュは残念そうだった。どういう理由で残念がっているのか首をかしげていると、ついにこんなことを言いだす。
「でも私、先輩がその人と結婚して、イギリスに住んでくれたらとてもうれしいです……」
 いや早いよ、思考が一足飛びってレベルじゃないよ。仮にそんな結果になるとしても年単位かかると思うよ! ありえないけど!
 と、言いたい気持ちを押さえて、立香は「相変わらずマシュは甘えん坊だなぁ~」とごまかすことにした。そんなことないですとムキになる後輩がかわいくてしょうがない。

 イギリスに住んだら、マシュといつも会えるのかなあ。
 ふっと頭をよぎった考えがとてもいいものに思えてくる。
 いやまあ、そうだとしても、渡りに船とばかりにウェイバーとそういう仲になるのもどうなんだろう。大体、ウェイバーがわたしを好きだと決まったわけでもないし……。
 と、顔には出さずに立香は悶々と思考を巡らせる。答えなどない。ただ、こんな気持ちになるのは久しぶりなので思考それ自体が楽しかったのは事実だった。
 なんとなく図書館の出来事を思い出す。もう遠い夏の日のことは、聞いてみるにはあまりにもデリケートな話題で。
 それゆえ、二人は互いの胸の内など知らぬまま、渡英の日を迎えることになる。