√HAPPY END 04

「ああ、びっくりしちゃった。いつ帰ってきたの? 何年ぶりだっけ? 元気にしてた?」
 矢継ぎ早の質問に、ウェイバーはまず微笑を返した。絞られた照明を受けて、カウンター上のグラスが鈍い光を放っている。
「帰ってきたのは、ついさっきだ」
 ウェイバーと立香は、雑居ビルの地下にあるバーのカウンターに隣り合って座っている。コンビニからタクシーを走らせること数分のこの場所に来たのは、ウェイバーの提案でもあり、立香の提案でもあった。ウェイバーは「久しぶりだな、でも夜も遅いし今日はこれで」なんて子供みたいなことはしたくなかったし、立香も立香で積もる話が――あったわけではないが、同級生と遭遇したテンションのまま帰宅するのも惜しかった。結局、どちらともなくどこかに入ろうということにはなったものの、騒がしい店以外でというウェイバーの求めに合致するような店を立香がそう知っているわけでもなく、いつだったか一度入って追い出されたきりのこの店を思い出したのが十五分ほど前だった。
「追い出された?」
 コンビニの駐車場に待たせていたタクシーに乗り込むと、ウェイバーは怪訝な顔を立香に向ける。
「大学生のときにね、酔っ払って騒いだら追い出されたの」
「……」
 追い出されるなんて一体どのくらいひどく騒いだのか。呆れてしまうウェイバーは、しかしこの店の雰囲気は気に入った。設えも調度品も音楽も落ち着いている。酒もつまみも悪くない。客の数は少なくもなければ多くもない。明日も平日だし、時間も遅いから当然だろう。
 午後からとはいえ明日も仕事の立香は、日付が変わる前には帰したい。一時間もかからないからとタクシーの運転手には、店の近くで待ってもらうことにした。
 
「でもこういうお店、似合うようになったね」
「似合う?」
 立香が感慨深そうな声音で言うものだから、ウェイバーは居心地が悪かった。
「もうすっかり大人」
「それはお互い様だろう」
 なにせ同級生、同い年。環境は違っても同じだけ時間を重ねている。立香はグラスを傾けながら目を細めた。透明な炭酸の粒が、浮かんでは消えていく。
「ずっとイギリスにいたの?」
「ああ」
「なるほど、紳士なワケだ」
「は?」
 何を藪から棒にとウェイバーが振り返ると、
「階段、先に降りてくれたから」
「そのくらい、当然じゃないのか」
「手は引かないよ」
 小さく笑う立香に指摘されて、しかめ面になったウェイバーはグラスに口をつけた。空きっ腹にウイスキーというのは考えものだが、そうしないと間が持たない。ダメだな、と、自嘲する。緊張であっという間に酔いが回りそうだった。
「でも嬉しかった。ちょっとドキドキしちゃった」
「あ、そう……」
 “ちょっと”かと思うとこちらも“ちょっと”がっかりしてしまう。お構いなしの立香は、ナッツの入った皿に指を伸ばす。
「そんなんじゃアレでしょ、引く手あまたの、よりどりみどり?」
「まさか」
 嫌な話題だ。ウェイバーは鼻を鳴らしながら、しかし奇妙な気分でもあった。飲み物を前にして色恋の話をしていると、いつぞやの苦い記憶に苛まれるようだった。
「仕事が忙しくてそれどころじゃない。女性は嫌だろう、そういう男は」
 正直に言うとあまり仕事が関係ないところで「いいな」と思った女性はいたのだが、「いいな」と思った三秒後に「ずっと忘れられない人がいるの」と一方的に思い出話をされてうやむやになってしまったことがあった。まあ、あれはノーカウント。立香が覚えているだろうあの事件もノーカウント。
「仕事って?」
 少し酔ったのか、瞼の重そうな顔で立香が首を傾げる。さすがに高校生のときに彼女のこんな表情は見たことがなかったので、ウェイバーは少しだけたじろいだ。動揺している、と言うべきか。
「言えない仕事? ……MI6とか?」
 言葉に詰まっていたウェイバーをどう勘違いしたのか、立香が真面目くさって顔を覗き込んでくる。あまりにも真剣だったので、ウェイバーは噴き出して笑った。
「映画の見過ぎじゃないか?」
「違うの?」
「当たり前だ」
 よくよくそんなことを思いつくものだと、ウェイバーはいっそ感心した。嫌悪感はない。むしろ、天真爛漫なところが立香に残っているのが好ましかった。
 立香は笑われたのが気に入らなかったのか、「じゃあ何よ」と答え合わせを急かす。
「企業の法務関係をやってる。資格持ちが自分しかいないから、それで忙しいだけだ」
「資格って?」
「弁護士」
「えっ」
 立香は目を丸くしている。
「……そうなんだ、すごいね」
「別に、大したことじゃ……」
 謙遜半分の言葉に、彼女は首を横に振った。
「そんなことないよ、だって、難しいでしょう? いっぱい勉強したんでしょう? それで大したことないなんて言われたら、わたしの立場がないよ」
 やけに鬼気迫る表情だったのでウェイバーは気圧された。立香の表情はウェイバーを責めているわけではなかった。だけど、賞賛だけではない。彼女の胸のうちには、なにか複雑なものが渦を巻いているようだった。
「……なんで?」
 聞いていいのか迷ったが、ダメなら最初から匂わせるようなことを言うまい。それに、お互い酒が入って口が軽くなっているフシもある。ウェイバーの目論見は、果たして正しかった。
「わたしは、ウェイバーがそうやってがんばってる間、馬鹿みたいに遊んで、いや実際馬鹿だったんだけど、バイトに夢中になって、結局単位落として卒業できないかも、とか、そんなんで、今、苦労してるから……」
 ぼそぼそと立香は語る。愚痴というよりは懺悔みたいなものに感じられた。
「そんなだったから、なんとか入れた会社もいわゆるブラックってやつで……結局身体壊したり、そのころ付き合ってた人にも「その程度で何甘えてるんだ」とか言われて、なんかもう、ボロボロだったの」
 ひどい男がいたものだとウェイバーは第三者ながら憤慨した。そういうときに支えてこそのパートナーじゃないのかと。
「で、結局止めたんだけど、次の仕事がなかなか見つからなくて……今はアルバイトみたいなことでなんとか凌いでる感じ」
 力なく笑った立香に、何を言えばいいのかわからなかった。就職先がブラックだったのは立香のせいではないが、確かに彼女が後悔するとおり、漫然と学生生活を過ごすのではなく資格を取るなりしていれば今よりは多少マシな「今」があったのかもしれない。
「やだなあ、なんか、ウェイバーのことひがんでるみたいで。今の忘れて!」
 誤魔化すように笑った立香は「今のバイトだって楽しくないわけじゃないし、正社員に登用されるかもしれないし……確率はめっちゃ低いだろうけど……」と、結局鼓舞しているのか落ち込んでいるのかよくわからなかった。
 もやもやしている。
 立香は自分の現状に対して忸怩たる思いを抱き、ウェイバーはそんな彼女に対して何かできないだろうかと悶々としている。というか、手を差し伸べたいのだが、そんなことをしていい立場なのかと思い悩んで攻めあぐねている、と言ったほうが正しい。
 どうしたものかとグラスを持ったまま渋い顔をしていると、立香が眉を下げた。
「ああもう、そんな暗い顔しないで! ウェイバーは昔から頭良かったし、努力家だったもんね! 弁護士おめでとう!」
 そんなよくわからない音頭でグラスがぶつけられる。乾杯のつもりなのだろう。立香はスプモーニを飲み干し、もう一杯同じものをカウンターの中に注文した。
 ウェイバーのグラスの中で氷が揺れる。真冬だというのに汗をかいたグラスの表面を、水滴が流れていった。
 いつかの夏、こんな光景を見た。去来する様々な光景に、抑えきれない思いがこみ上げる。

「ロンドンに来ないか」

 その言葉に驚いたのは立香だけではなかった。言ったウェイバー本人だって、何を言い出しているんだコイツはと呆れていた。
「ロンドン……?」
 空のグラスを片手に、立香がきょとんと復唱する。なんでまたロンドンへ自分を誘うのか、その意図とは。そんなことを言いたげな顔を向けられると、ウェイバーは動揺するしかない。
「いや、その……別に永住しろとか言っているわけじゃなくて、うちは部屋も多いし広いし、いや別に変な意味はなく、そうすれば宿代もかからないだろうし、家事なら家政婦を雇ってるから気にしなくていいから……」
 何を言っているのかわからなかった。多分、お互いに。
「ええと……つまり、遊びに来い、ってこと……?」
 立香は懸命に、好意的に解釈してくれたのだろう。ありがたい助け船だった。
「そう、そうだ。ほら、鬱々としてるより、気分転換でもどうかと思って。ああもちろん、滞在費なんていらないし、旅券もこっちで手配する」
 言い出しっぺなのだからそのくらい、と、ウェイバーは当然のように言ったのだが、立香は表情を強張らせた。
「――どうして?」
 立香は、困惑しながら怪しんでいた。
「どうしてわたしのために、そこまでしてくれるの?」
 いつの間にか、新しいスプモーニがコースターの上に乗っている。
「それは……」
 ウェイバーは言葉に詰まる。情けなかった。本当に言いたかったことは何一つ言えなかった。どうして自分はこうなのだろう。昔から口先だけで誤魔化すようなことしかできなくて、本心をさらけ出すのはとてつもなくかっこ悪いことにしか思えなくて、それで傷つくのが怖い。
 そんな自分に手を伸べてくれたのが立香だったはずなのに。
 ずっと彼女に、お礼が言いたかったはずなのに。
 ウェイバーは、薄くなったウイスキーを一息に呷る。多少薄まったとしても元のアルコール度数は高い。熱い液体が喉を通り抜けていく感覚に、覚悟が定まった。
「恩返しがしたいんだ」
 唐突な申し出に、立香は言葉もない。
「あのとき、ボクに話しかけてくれたキミに、ずっと礼が言いたかった。あれがなかったら、きっとボクは、ずっと一人だった」
「そんなこと……」
「あるさ。きっかけに過ぎないなんて言うかもしれないけど、ただのきっかけだとしても、キミは本当に、偉大なきっかけだった」
 立香は、口を挟まずに黙って聞いている。
「ひとりぼっちのボクを救ってくれた人が今困っているのなら、ボクはそれを助けたい。それじゃ、ダメだろうか……」
 言葉尻が小さく消えていく。この申し出が世間一般に見ておかしいのかどうなのか、ウェイバーにはわからないし、どうでもいい。ただ自分の気持ちに正直になっただけだった。たとえ拒まれても、それならそれでいい……とは、残念ながら思えなかった。数多の経験は、彼を無意識に欲深にしている。
「ダメ……っていうか、わたしはたったそれだけのことしかしてないのに、そんな数十万倍返しされても……」
 それがまっとうな感覚なのだろう。ウェイバーはふと、似たような経験を思い出して笑った。
「なに」
「いや、自分が今の勤め先にいる理由を思い出した」
「理由?」
 なんだそれは、と、立香は少し前のめりに体を近づける。
「信じられない話だが、五年くらい前に行き倒れていた男に食事をさせたことがあって」
「なにそれ」
 立香は笑った。気持ちはわかる。ウェイバーだって「なんで二十一世紀のロンドンに行き倒れが……」と非常に当惑したものだ。
「それでそいつ、人の金で150ポンドも飲み食いした挙げ句に踏み倒して行った」
 ちなみに日本円で言うと大体二万円程度になる。何を注文したら一人でそんな額になるのだろう。
「ひどい」
 立香は笑っているが、同情しているのか眉は下がっていた。
「その時はむかついて仕方なかったけど、勉強やらで忙しくて、すぐ忘れてた。思い出した、っていうか、また会ったのがそれから二年……かな」
「また会ったの!?」
 つまり、またたかられたのかと聞くとウェイバーはそうではないと首を振る。
「そいつ、面接にいった会社の代表だった。こっちの顔を見るなり「採用!」って……あのときほど呆れたことはなかったよ」
「うそ……」
 そんなことがあるのかと立香は耳を疑ったし、ウェイバーだって「この会社大丈夫か」と後悔しかけた。しかし代表の御仁は「まあウチが気に入らなきゃどこへでも紹介状を書いてやるわい。メシの礼だ!」とさらに破天荒なことを言うものだから、ウェイバーもなんだか肝が据わってしまって、この突拍子もない男の下で働いてみようと思った。150ポンドの食事が、年収5万ポンドにわらしべ長者した瞬間である。
「そんな大それた事をするやつがいるんだ。ボクの申し出なんてそれに比べれば大したことないと思うけど」
「うーん……」
 話の筋は通っているかもしれないが、非正規雇用の立香にとってはどちらも雲の上の話である。現実味がないし、そんな話にはいそうですかとホイホイついて行くほど子供でもなかった。
 とは言ってもウェイバーが自分を騙そうとしているとは思えないし、第一メリットも何もない。
「イギリスかあ……」
 行ったことはないが、興味がなくはない。学生時代の自分なら後先考えず乗っていたに違いないと思うと、立香は自分が臆病になったのかもしれないと思って、少しだけがっかりした。
「今決めなくていい。年が明けるまでこっちにいるから」
「あ、うん」
 立香は少し、拍子抜けした。少し考えさせてくれと言おうとしたのを先回りされた気がして。
僅かな沈黙。ウェイバーは立香にスプモーニを勧め、カウンター内のバーテンにカードを渡して会計した。
「えっ、悪いよ」
「いいんだ。いつかのコーヒーの礼だ」
 結局あのときもおごられて、ウェイバーの心にはいくつもの重りがひっかかっていた。それがようやく、少しだけ軽くなった気がする。立香は釈然としない顔だったが、すでに切られたカードが戻ってくるのを見て厚意をありがたく受け取ることにした。
「なんか、知らないうちにいっぱい恩を着せてたのね」
「そうさ」
 笑うウェイバーがあまりにも嬉しそうだったので、立香は顔を逸らしてグラスを一気に空にした。

「ありがとう。ごちそうさまでした」
 バーのドアを開けると、真冬の冷気に身が縮む。酔い覚ましと言うには冷たすぎるのだろう、立香は首をすくめながら、いそいそと地上への階段を上り始めた。
 その後ろから、ウェイバーは同じ階段を上っていく。かつんかつんと不規則なヒールの音は、不意に途切れた。
 立香が立ち止まったのかと思ったが、そうではなかった。
「わっ!?」
 片足を踏み外した立香の身体が傾ぐ。一気に飲み干したアルコールが今襲ってきたのか。なんてことを考えるより先に、ウェイバーの手が伸びた。
 倒れてくる立香の向こう側に、歪んだ月が白く輝いていた。こんな光景を、どこかで見たような、あるいは望んでいたような、奇妙なデジャビュを感じる。
「……びっくりした」
 後ろからウェイバーに抱き留められた立香は、とりあえず自分の無事を確認し、さしあたって感じていたことを口にした。まさか階段ですっころぶとは思っていなかったし、ウェイバーにがっしり受け止めてもらうとも思っていなかったので恥ずかしさで顔が熱くなる。同時に、あんなに華奢な少年がこんなに立派な「男」に成長した事実が、急に実感を伴って襲ってきた。なんだこれ。なんだ、この変なきもち。
「こっちだって、びっくりした……」
 ウェイバーだって似たようなものだった。
 自分まで一緒に転落しないように気をつけていたので無事に立香をキャッチできたのはよかったが、思ったよりもずっと細い身体の感触にめまいがしそうだった。こんなに脆そうだとはつゆほども思わなかった。ひとりぼっちのウェイバーに手を差し伸べるほど優しく強かった彼女は、今はウェイバーよりもずっと簡単に折れそうじゃないかとすら感じた。
 守りたいと、思った。
 今の自分なら彼女を支えられるに違いない。ウェイバーはその身体に腕を回して、きつく抱きしめたい衝動と戦った。このまま連れ去ってしまうことだって、できない相談ではないと思った。
 でもそれをしないのは、立香に対する最後の誠実さだったのかもしれない。再会したその日に「キミのことが好きなんだ」なんて、さすがにちょっといい加減過ぎるだろう。しかしそれ以上に、十年前に「誰でもいいんだろう」と言われたのと同じ轍を踏むわけにはいかない。
 そう、十年。十年が経てば、少年は策士にもなる。相手の都合も考えずに感情のままに行動する、そんな若さ故のなんとかが肯定される歳でもない。
 ずるいのだろう。卑怯かもしれないだろう。
 でも本心から立香を助けたかった。思い上がりだろうけど、自分ならそれができると信じている。だから、最良の結果のためにウェイバーはこみ上げる衝動を堪えた。十年待ったのだ。あと数日程度、どうってことない。満たされたない心を埋め合わせるように、ウェイバーは立香の髪に鼻先をそっと埋めた。