√HAPPY END 03

 タクシーの窓の外を、無数の光の粒が流れていく。眠いのか目が冴えているのか、よくわからない不快感を抱えたままウェイバー・ベルベットはぼんやりと昔のことを思い出そうとしていた。
 かれこれ十年ぶりに、故郷と呼ぶべき街へと帰っている。故郷と言っても両親はすでに亡く、父方の祖父母はイギリスに、母方のほうは退職を機に何故だかシンガポールに移住した。ウェイバーはそこを訪れたことはないが、きっと十二月の今も暑いのだろう。自然と眉が顰められるのは、彼が暑がりだからだ。
 故郷が様変わりしたのかどうかはわからない。夜ということもあって空港から伸びる高速道路からは細かなことはわからないし、そもそも十年前の街をそんなによくは覚えていない。対岸に見える大きな観覧車、あんなものあっただろうか。思い出せない。中心から伸びる支柱は、色とりどりのネオンカラーでめまぐるしく様相を変えていく。クリスマスや大晦日は、きっと大賑わいなのだろう。笑顔で埋め尽くされた喧噪と、そこからはじき出されている自分。そんな光景を想像しても、もう息苦しさは感じなくなった。それが大人になったからなのか、大人になって鈍感になったからなのか、彼にはまだよくわからなかった。

 空港に到着したのが午後九時を過ぎたところで、それから入国手続きだの手荷物の受け取りだのを済ませ、タクシーで都心部に入ったときにはもう十一時になろうかというところだった。乗り継ぎを含めて十五時間ほどの長旅はさすがに堪えるが、どこかで軽く食事を取りたい気分もある。ホテルに到着する頃には併設のレストランも閉店していることだろう。考えた末に、ウェイバーは運転手に尋ねた。
「食事ですか? はぁ、そりゃあ、この時間じゃ居酒屋くらいしかないでしょうねえ」
 初老の運転手は人の良い顔でそう答える。ルームミラー越しにチラチラと視線を送ってくるあたり、見た目外国人のウェイバーが流暢な日本語を使うのが不思議だったのだろう。今にも「日本語お上手ですね」と言いそうな顔をしている。
「居酒屋……」
 その響きだけでげんなりする。ウェイバーは居酒屋なんて場所を訪れたことはないが、言葉のイメージは決してよくはない。もちろん勝手なイメージなのだが、理屈じゃない拒否反応を感じてしまう。
 これはコンビニで何か買って、ホテルの部屋で食べた方がマシだろうか。前方に赤と緑の看板が見えると、ウェイバーはそこに入ってくれと運転手に指示をした。

 大きなスーツケースはタクシーのトランクに乗せたまま、ウェイバーは自動ドアをくぐる。店内に入った途端耳に入るコンビニのキャッチフレーズ、視界に氾濫する日本語の波、どこか懐かしいようで違和感のある疲れ切った客の顔。そのどれもがウェイバーを、まるで異邦人のような気分にさせた。
 まるでもなにも、実際十年ぶりに日本の地を踏む異邦人なのだから仕方ない。一抹の寂しさのようなものを振り払い、彼は弁当のコーナーへと足を進めた。店内配置くらいはまだ覚えている。
「……」
 予想はしていたが、深夜十一時のコンビニにはろくなものがなかった。サンドイッチやおにぎりはほぼ空。弁当もまばらに、どう見ても不人気の商品が一つ二つ残っているだけ。あとはパンかカップ麺くらいしか選択肢がないが、甘い菓子パンも味がどぎついカップ麺も、手を伸ばす気にはなれなかった。
 そもそも日本に帰ってきて最初の晩餐がコンビニ弁当というのも情けないが仕方ない。ウェイバーはコートのポケットに突っこんでいた右手を出し、弁当を――取らなかった。なにせ残っていた弁当は、蓋は「ガッツリ」「ドカ盛り」の文字が躍っている、運動部の男子高校生向けみたいなそれだったのだから。さすがに深夜にこの量を食べる気になれないし、そもそもどちらかというと食が細いので時間を問わずお断りしたい弁当だ。
 諦めてミックスサンドのパックに手を伸ばす。最後の一つのそれは、しかしウェイバーに触れられることなく、棚から消えてしまった。
「あっ……ごめんなさい」
 タッチの差でサンドイッチを選んだ手の持ち主が、申し訳なさそうにウェイバーの顔を見上げた。
仕事帰りだろうか、彼女は疲れた顔をしている。それでも無理に笑顔を作って、気まずそうにそそくさとレジへ向かっていった。
 ウェイバーはしばしの間、指先すら動かせなかった。
 サンドイッチを奪われたのがショックだったわけではない。腹立たしく思っているわけではない。
 ただ、彼女の顔に衝撃を受けていた。
 見間違いだろうか。いや、そんなはずはない。でも、彼女だとしたら、どうして自分に気付かなかったのだろう。
 レジに並んでいる彼女の、赤い髪を見つめる。間違えるわけがない。少し跳ねた毛先だって自分はよく知っている。
 泣き出したいような衝動がウェイバーを襲った。
 帰郷してようやく、自分を知っている誰かに会えた。それが嬉しくて、ほっとして、気がついたら彼女に向かって歩き出していた。深夜帯なのにやけに元気のいい店員の「ありがとうございましたーまたお越しくださいませー」に会釈して店を出ようとする彼女の手を掴む。
「!?」
 当然彼女は背後から手を掴まれて全身を強張らせる。店員はぎょっとした顔でカウンターの下に手を伸ばしているが、二人は気付かない。
 ウェイバーは息を呑んだ。振り返った彼女は、間違いない。
「立香、じゃないか」
 それでもどこか自信なさげに尋ねる形を取ってしまうのは、もう生来のものなので仕方がない。そんなことは今どうでもいい。自分を見上げて言葉を失っている立香を同じく無言で見つめながら、ウェイバーはただ、ばくばくと心臓が脈打つのを自覚していた。自動ドアが開き、間の抜けたピンポン音が鳴る。入ってきた客が訝しげに二人を見て、雑誌コーナーへ回っていく。立香が持ったビニール袋が微かに乾いた音を立てて、それから彼女はこう口にした。
「あの……どこかで会いました?」
 沈黙。
 愛想笑いを浮かべているが、立香の表情は強張っている。ウェイバーはショックだったが、この十年それなりの経験をした彼はこんなことではへこたれなかった。
 返答が「違います」ではなくて「どこかで会いました?」と聞き返したということは、とりあえず彼女が藤丸立香であることは間違いない。つまり彼女は、目の前の男がウェイバーだと気付いていないだけなのだ。いや、確かにウェイバー・ベルベットという人間のことをすっぱり忘れているのかもしれないけれど、悲しくなるのでその可能性は排除したい。
 そもそも排除する以前に、立香が気付かないのも無理がなかった。十年前は彼女よりも低かった背丈はおおよそ三十センチ近く伸び、今や立香がのけぞるようにしないと見つめ合うこともできない。切りそろえられていた髪も同じように長く伸び、まっとうな職場に勤めている人間なら中々お目にかかることはないだろう風貌をしている。見た目で言えば、顔つきもそれなりに変わったとウェイバーは自覚していた。
 そんなわけなので、立香はこれがウェイバーだとわからない。わからないので第三者から見たら見ず知らずの他人に絡まれているようにしか見えない。したがって仕事熱心なのか野次馬根性なのか知らないが、バイト君はカウンター下の通報ボタンに手をかけている。
「ボ……私だ、ウェイバー・ベルベットだ」
 さすがに通報ボタンに気付いていたわけではないが、ウェイバーだって友人にこんな顔をされたままなのは不都合である。なので、正直に名前を告げた。一人称だけが、昔の彼を懐かしがっていた。
「えっ?」
 さもありなん。自分より背が低くてどっちかっていうとカワイイ系認定されていて、そういう理由から学園祭でアキバ系メイド服を着せられていたウェイバー・ベルベット君と、モデルか俳優のようにすらりと背が高く脚も長く、彫りの深すぎる目元とすっと通った鼻筋をして「カワイイ」とは言い難いどこからどう見てもイケメンというか美丈夫としか言いようのない目の前の男性が同一人物とは思えない。
「えっ? えっ? ウェイバー?」
 立香の反応に、ウェイバーは少し安心した。一致はしていないようだが、彼女の記憶からウェイバー・ベルベットは失われていなかった。
「そうだよ。世界史のクラスが同じだった、二年A組のウェイバーだ」
 口に出した自分が郷愁の念に焼かれそうだった。もう戻らない日々がめまぐるしく瞼の裏を駆け抜けていく。
「……うそ」
 あんぐりと口を開けた立香は、しばらくして笑顔を浮かべた。
「うそ? ほんとに? えっ、なんでこんな、ちょっと背、高すぎない!?」
「なんだよそれ」
 言ってることはめちゃくちゃで、十年前の彼女とまったく同じだった。
 立香がいる。今、ウェイバーの目の前に、あの頃の彼に手を差し伸べた立香がいる。
 十年経って、年相応に化粧をして、ハーフアップにまとめた髪にシックなバレッタをして、かかとのある靴を履いた立香がいる。
 ウェイバーは笑っていた。彼女に会えたのが嬉しかったのか、十年前の自分たちが失われていなかったのが嬉しかったのか、その時の彼にはまだ、よくわからなかった。