√HAPPY END 02

 深い緑のロゴマークの真ん中で、人魚が半笑いを浮かべている。ウェイバーはこの表情がなんとなく気に入らなくて、店内に入ったことはなかった。というか、コーヒーなりなんなりを飲食するために喫茶店の類を利用したことがない。ファーストフードの店ですら以下同文。なにせ下校中に寄り道するにしても付き合ってくれるような友達もいなかったし、同じ制服が騒いでいる店内にたった一人で突っ込んでいく度胸もなかった。
 まあそれはそれとして目下の問題は目の前の女である。
「ここはわたしのおごりだから! 気にせず!」
 と、藤丸立香は問答無用で大きなプラカップ入りの、飲み物なのか食べ物なのかウェイバーからしたら判然としないものをテーブルに置いたのだ。なんだこれは。なんでホイップクリームにストローが刺さっているんだ。
「……おごったからって許すわけじゃないぞ」
 じっとりと睨みつけると、彼女は途方にくれたような、呆れかえったような顔になった。
「許すとか許さないとかさぁ……」
 仕方ないじゃん。
 開き直った立香の背後を見る。店内には同じ制服はいない。たまたま混みはじめる直前に滑り込めたのだろう。入口の自動ドアの方では、見覚えのあるスカートの集団が満席と知って右往左往した後にどこかへ去っていくのが見えた。
「何が仕方ない、だよ。あんなところにいて聞き耳立ててなかったなんて信じるわけないだろ」
「ほんとだって! 図書館って静かで涼しいから、ついうとうとと……」
 それで書架と書架の間に座り込んですぴすぴ寝ていたのだという。そんなアホがいるのだろうか。
「信じられるか」
 はっと吐き捨てるようにウェイバーは一蹴した。
「仮に寝てたってのが事実だとしてもオマエがボクたちの会話を聞いてたことに変わりはないじゃないか」
 うっと立香が言葉に詰まっている。
「それは……謝る……でも目が覚めてあんな会話してるのが聞こえたら出ていくわけにもいかないじゃん」
 太めのストローを啜りながら上目づかいに睨んでくるが別に怖いとも思わない。というか、そんなことはどうでもいい。
「……言いふらしたりしないだろうな」
 ウェイバーの心配と疑念は本物だった。いつもぼっちのウェイバーくんが調子に乗って彼氏持ちにそうとは知らず告白しこっぴどく振られた、なんて、連中にとって格好のネタに違いない。そんなことで話題になるくらいなら引きこもる。
「はあ? するわけないでしょ」
 しかし立香の呆れと憤りも本物だった。心配する気持ちはわからないでもないが、そうも喧嘩腰に睨まれればカチンとくる。ウェイバー・ベルベットはプライドが高くて同級生なんか歯牙にもかけてない、彼がそう言われているのはきっと誤解に違いないと思っていたが世間の評価は正しかったのかもしれない……と、お行儀悪くストローの先端を噛み噛みしていたのだが、
「……彼女は、言いふらしたりしないかな」
 そう零したウェイバーの表情があまりにも心もとなくて、こんなことを考えてしまった。

 もしかして彼は、怖がっているだけなのでは?

 友達がいないのも話しかけるのが怖いだけなのかもしれない。プライドが高く見えるのも(実際そうかもしれないが)ただの虚勢なのかもしれない。そう思うと、なんだか彼が気の毒に思えてきた。何が原因だか知らないが、1学年およそ200人の中でずっとぼっちでいるなんて、このたびメッセージアプリの連絡先数500を超えた立香にはちょっと耐えられない。気の毒に思う、なんて上から目線のおこがましい感情ではあるが、あくまで善意100パーセントの立香には思いもよらない。
 ウェイバーは、返事をしない立香に詰め寄った。
「なあ、あの子のこと知らないのか、なんていうか、そういうことしそうとか、しなさそうとか」
「は、え? ああ……えーと、しないと思うよ?」
 何せ彼氏君が束縛気味なので彼女が告白されたと伝えるだけで機嫌が急降下するとの噂だ。立香や友人たちからすれば何がよくてそんな面倒くさい男と付き合っているのか理解に苦しむが、当人たちが幸せならばそれでいいのだろう。ぶっちゃけ関わりたくはないし。
「そうか」
 ウェイバーはほっとしているようだった。ほっとしたついでに目の前のドリンクに手をつけて、一口すすった後に盛大に顔をゆがめた。
「甘いの苦手だった?」
「苦手になった」
 そりゃ悪いことをした。立香は苦笑しながら「何事も経験」と嘯く。
 しかしおかしなものだ。このドリンクはお詫びの気持ちよりは失恋慰めのためにおごったつもりだったので、ウェイバーがメソメソしていなくて立香は拍子抜けしている。むしろ自分の体面を気にする発言ばかりだし、わかりやすい表情もそれを強く感じさせる。立香の中で、疑念がうずうずと形を作っていった。
「あのさ、もしかして、だけど」
「なに」
 ウェイバーは器用にドリンクの真ん中あたりだけを飲んでいる。上は甘いホイップクリーム、下はキャラメルシロップなので飲めたものではないのだろう。
「本気で好きじゃなかったでしょ?」
 ぴたりとウェイバーが硬直したので、どうやら立香の言ったことは当たりだったらしい。的中に気をよくした立香は、ついうっかりこんなことを言ってしまった。
「大方、かわいい子だからこのくらいだったら自分の隣にいてもいいかな、くらいで告白したとか?」
「そ……」
 そんなことない、とは言えなかった。
 むしろ大体あってる。
 もひとつ言えば、周りに対する優越感を得たいがための焦りやらなんやらあったのだが、ウェイバーだってこれ以上恥をさらしたいわけでもない。ないので、黙ってストローを噛んでいる。
 そうかそうかと立香は腕組みして、訳知り顔でうんうんうなずいた。
「まあ気を落とすな少年、うちの学校だけに限らず女の子はたくさんいるんだから――」
 立香は困ったように笑っている。その笑顔にも馬鹿にされているようで、違う、憐れまれているようで、ウェイバーは叫び出したいのを堪えて静かに言った。
「たくさんいるから? じゃあなに? オマエ、ボクと付き合ってくれるわけ?」
 しょうもないプライドは一瞬だけ忘れた。捨て身の攻撃みたいなものだった。自分なんかからこんなことを言われる悔しさを、彼女も味わえばいいと思った。
 怒るだろうか、笑うだろうか。
 ウェイバーの視線の先で、立香は表情を変えない。どうして毅然としていられるのかわからなくて、ウェイバーは視線を落とした。
「そんなふうに誰でもいいみたいな態度だからいけないんだよ」
 カップの表面についた水滴が、耐え切れずに側面を滑り落ちていった。
「わたしが言いたかったのはもうちょっと周り見なよってこと。たくさん女の子いるんだから、きっと本気で好きになれる子がいるよってこと」
 立香はカップを持ち上げて、一息に中身をすする。もうほとんど残っていなかったが、ホイップクリームが跡形もなく消えていたのが不思議だった。一体どんな飲み方をしたんだろう。
「だって嫌じゃない? わたしがキミに、顔も頭も合格点だから彼氏にしてあげる、なんて言ったらさ」
「別にそういうつもりじゃ――」
「なかったかもしれないけど、そう見えたよ。自分以外はしょうもない人間ってくらい、思ってるんでしょ?」
 立ち上がった立香の顔が何を表しているのかよくわからなかった。悲しんでいるのか怒っているのか、それとももっと別の感情なのか。コミュ力の欠片もないウェイバーには見当もつかない。
 ついでに、鞄まで掴んで帰り支度を始めた立香に今何を言うべきなのかもよくわからない。まごついているうちに、立香はさっさと出て行ってしまった。多分、怒っているのだろう。
 ウェイバーはしばらくだまってそこに座っていた。甘ったるい飲み物をこれ以上口に入れる気にはなれなかったが、なにぶん育ちがいいのと立香への義理立てで、残してしまうなんて選択肢は存在しない。結局苦労しながら飲み干したころには周りの客がすっかり入れ替わっていた。
 立香のカップがあったあたりに残った水滴。涙の痕のようなそれを見ているのは、思った以上に嫌な気持ちだった。

***

 そんなこんなで始まった夏休みの間も、時折ウェイバーは彼女のことを思い出していた。
 言ってることは確かに正しいのだろう。正しいからといって受け入れられるかは別問題だし、そもそもウェイバーは積極的に「彼女」とやらが欲しいわけではない。
 ただし友達が欲しいのかと聞かれると、三日三晩悩んだ後に「YES」と答えるだろう程度には欲しがっているし拗らせている。
 ようやく彼は疑い始めた。ボクってけっこう、カッコ悪い……?
 というような、自己分析と言うにはお粗末なものを胸に抱えたまま夏休みが明ける。初日の登校時は憂鬱だった。あの場ではああ言ったものの、彼女が言いふらしたりしていないかは気になっていたから。しかし杞憂。ウェイバーの扱いは常日頃と変わらなかった。つまりこれまでと同じように話しかけてくる生徒はおらず、ここに自分という人間がいるのかどうなのか、よくわからない。
 そりゃそうだ。いきなり何かが変わるわけなんてない。そう落胆した自分のこともよくわからなかった。
 一週間ほど経ったころだった。相も変わらず図書室のテーブルで本の虫になっていると、目の前に誰かが来た。顔を上げる気もなかったのでしばらくそのまま、ウェイバーは気づかないふりをしていたのだが、どうにも来訪者は立ち去るつもりもないらしい。ちら、と、視線だけあげると、夏服のベストが目に入った。手首にはシュシュが通っている。女子だと思うとなぜかげんなりしたが、彼女はおかまいなしに腰を下ろした。
 そうするとさすがに無視するわけにもいかない。何せ図書室のテーブルは空席だらけ。明らかに自分に用があるのだろう。そんな相手に心当たりはないが。
「――」
 顔を上げたウェイバーの目が見開かれた。驚いているのは、相手が立香だったから。というか、あの日のやりとりからこっち顔も見ていなかった彼女が、なんだか申し訳なさそうな顔をしていたから、驚いた。
「あのときは、ごめん」
 しかもこんなことを言いながら頭を下げている。
 さっぱりわけがわからない。あのときの立香の言ったことは正しかったのだ。彼女が謝らなければならない理由など一つだってない。非がないのに謝るなんてことは、ウェイバーには理解に苦しむ行為だった。
「なんか、言いすぎたなって思ってたけど、連絡先とか知らないからずっと謝れなくて……」
 図書室が薄暗いせいかもしれないが、立香は少し日焼けしたように見えた。夏の間、あちこち遊んでいたのだろう。羨ましいような、苛立たしいような、説明のつかない感情だった。
「ごめん」
 とか言うけど、遊びほうけてたんだろ。オマエの「ごめん」なんてそんなもんだ――とは、言わなかった。
 遊びほうけたのも事実だし、申し訳なく思っているのも事実に違いない。だって、本当に「その程度」なら、遊びほうけている最中にどうでもよくなって忘れるだろうから。
 だというのに、律儀に覚えたままここまでやってきたくらいだ。立香はきっと、本心から反省している。
「……いいよ、別に」
 しかしウェイバーはウェイバーだった。何が「いいよ別に」なのかと十年後の彼は己をはったおしたくなる程度にこのときのことを思い返しては憤慨するのだが、なにせこのときの彼はまだまだ脆い自分を守るための頼りない殻でがちがちに凝り固まっている。悪いと思っていても頭を下げるなんてことはどうしてもできない。特に、相手が先に折れてきた場合。
「ほんと?」
 しかし藤丸立香はおおらかなのか鈍感なのかいい加減なのか、ウェイバーからの謝罪がなくても気にしていないという意思表示だけで満足したらしい。にっこにこの笑顔を浮かべて「よかった~」とか「嫌われたかと思った」とか勝手に捲し立てる。別にボクなんかに嫌われてもいいんじゃないかと言うと、先日よりも砕けた態度で立香はダメ出ししてきた。
「も~~だからそういうのがいけないんだって~~」
 何がいけないのかと聞いてみたかったが、立香はまた言いすぎてしまうことを恐れたのか、口をつぐんでしまう。
「じゃあわたし、行くね」
「え」
 もう行くのか、と、言いかけたウェイバーは、彼女の視線の先を追う。
「わたし、声大きいみたい」
 カウンターの中から司書教諭がじろりと睨んでいた。仕方あるまい。立香の申告は事実だ。
「邪魔してごめんね、今度また話そうね!」
「あ……」
 今度って――と、声をかける間もなく、立香は風のように立ち去った。カウンターの中から出てきた咳払いに追い立てられるように。
「今度って……」
 なんだよ。と、ウェイバーは落ち着かない。しかしどうせ社交辞令に違いあるまいと思うと、いくらか気分は落ち着いた。すこしだけ、残念だったけど。

 果たして藤丸立香の社交辞令は、社交辞令ではなかった。
「よっす」
 と、声をかけてきたのは世界史の授業のときだった。
「どっかで見たと思ってたんだけどA組だったんだね~」
 立香はE組だ。社会の授業は日本史・世界史・地理に分かれているので、2クラスの生徒がそれぞれ割り振られたクラスに移動して合同で授業を受ける。世界史はA組の、日本史はE組の教室。なお、受講生の少ない地理は何故だか第三理科室である。
「え、あ、ああ」
 見覚えがあったと言われて、ウェイバーはなんとなく申し訳なく感じた。立香はさておき、ウェイバーの方には彼女の見覚えなど一切なかった。なにせ世界史の授業に限らず、周りなんてほとんど見えていない、というか見ようとしない。自分の方を誰も見ていない世界なんて、見たくもなかったから。
 だと言うのになんだこの女。立香は授業開始のチャイムがなっていないのをいいことに彼の前の席に座ってくる。藤丸そこ俺の席―と、こちらはさすがに前の席だけあって見覚えのある男子生徒が文句をつけるのだが、本人には通じていない。「じゃあ交換で特別にわたしの席を貸してやろう、JK価格1分100円ね」「ぼったくりじゃねーか」とかなんとか、そういうアホなやりとりをしている。
「何? 立香知り合い?」
 今のやりとりで気づいたのだろう。見たこともない女子が興味深そうに覗き込んでくる。青みがかったロングの黒髪が肩からさらりと滑り落ちた。
 立香は「うんそう」と軽く肯定し、ウェイバーを親指で示しながら、
「夏休みに本屋で会って、買った本にジュースこぼして弁償させられた」
「は!?」
 なんだその身に覚えのない話は。唖然とするウェイバーをよそに、黒髪ロングさんは立香の頭をペンケースでぱしんとはたく。
「いや“させられた”って、それ弁償すんの普通じゃん……あんたやっぱ、ほんとドジ。災難だったねー?」
 最後の一言はウェイバーに対するもの……なのだろう。曖昧に頷くと、立香が笑いながら何かを話し始めた。
 何が何だかわからないうちに授業が始まった。それまでにした会話の中身なんて覚えていない。
 初めてだった。事務的なこと以外で、教室で誰かと話をしたのが、高校生活では初めてだった。
 その日、ウェイバーは初めて、ノートを取ることを放棄した。なんだかふわふわと、落ち着かない気分だった。

 それからもちょくちょく立香はウェイバーに話しかけてきた。そのおかげか、他の生徒もちょくちょく彼に話しかけるようになる。大体、勉強教えて系がほとんどだったけれど、そのうち男子生徒たちと、学食やらトイレやらに連れだって移動することも増えてきた。
 なんだ、こんなもんでよかったんだ。
 肩の力が抜けるような安堵を感じたのは、多分ウェイバーだけではなかったのだろう。「なんかとっつきにくいヤツがいるけど、話しかけられるのも嫌そうに見えるし、どうかなあ」と様子見していたクラスメイトも「なんだ、話しかけてよかったんだ」と、あっさり笑顔になっていた。
 それもこれも、立香のおかげなのだろう。
 本屋ジュース事件(ねつ造)の噂が広まったせいか気の毒な被害者ポジションで受け入れられたのも、結果的にはよかったに違いない。人間、不憫な仕打ちを受けたものには手を伸べたくなるものである。
 礼を言うべきなんだろうかと思ったこともあった。けれど、立香がそんなことを望んでいないのは明らかだったし、なんというか彼女はそう、底抜けのお人よしなのだ。だからウェイバーが友達に囲まれるようになることが、立香が一番望んでいることじゃないかと思うし、いやいや、だからと言って礼を言わなくていい理由にはならないのでは?
 などと考えているうちに修学旅行(ぼっちになることはもちろんなかった)やら学園祭(メイド喫茶をやることになったのはいいとして男の自分にもメイド衣装を着せてあまつさえ写真を撮りまくったことについては許さない)やら、楽しくも忙しいイベントに忙殺される。立香はいつだって、イベントの真ん中で楽しそうに笑っていた。無意識に彼女を目で追っていたのは、まあこの頃からそういうことだったんじゃないかな、と、十年後のウェイバーはほろ苦く思う。
 どのみち、あやふやな気持ちを伝えることも、礼を言うこともかなわなかった。臆病だったからとか勇気がなかったとか、まあそれもあるけれど、物理的に無理になってしまったのだ。

 ウェイバーの両親が仕事先で事故に巻き込まれて亡くなったのは、年が明けてすぐだった。
 相続だのなんだののためにと祖父母がイギリスから迎えに来てくれた。久しぶりに会う彼らはもちろんずいぶん気落ちしていたけれど、ウェイバーの顔を見ると祖母はとうとう泣き出してしまった。
 その泣き声を聞きながら、これからどうなるんだろうと考えていた。それ以外はよく、覚えていない。
 相続だのなんだののゴタゴタが片付くのに半年ほどがかかった。気付いたら携帯も解約されていたし、端末自体が行方不明になっていた。
 高校の友人たちには連絡がとれないのだと気づくと、途方もない孤独を感じた。
 ウェイバーは、また一人だった。