√HAPPY END 01

 ウェイバー・ベルベット少年に雷が落ちたのは、彼が十六歳の初夏だった。
 言ってみればそれは、自己肯定感の低さとか、自意識過剰とか、あるいはプライドの高さが原因だったかもしれない。もっと言うなら、外見に対するコンプレックスが最大の要因だったのだろう。彼の両親はイギリス人なので、当然彼もイギリス人。日本人からはかけ離れた名前と顔立ちをしている。(もっとも、厳密にいうと母親が日本人とのハーフなのでクォーターということになるが。)にも関わらず、生まれたときから日本に住んでいたためれっきとした日本語ネイティブ。外見から期待されるような語学能力は、残念ながら彼にはなかったし、特にその必要もなかった。「外国人の男の子」を期待して、勝手に裏切られたような顔をするのは毎年四月の恒例だ。
 いつだってそうだ。勝手にはやし立てて、勝手に去って行く。そのうち彼にとって、周りにいる同年代の生徒たちは例外なく「ミーハーで手前勝手な馬鹿」に成り下がった。十年近く経った今となっては、酸っぱいぶどうもいいところだったと恥ずかしく思うのだが、十六歳の彼には思いつきもしない、いや、無意識に否定している事実なのかもしれない。
 彼は高校生で、思春期で、孤独だった。

 色々と書き連ねたが、彼が――ウェイバー・ベルベットが十六歳の夏のはじめに失恋したのは事実だし、ウェイバーが言うところの醜態あるいは屈辱の発端を彼の孤独に求めるのも、当時の本人にとってはごく当たり前の理屈だった。

「ありがとう、ウェイバー君。すごく字が綺麗なんだね」

 にっこりと笑う彼女の名前を、ウェイバーはもう覚えていない。状況だけはいつまでも未練がましく覚えてしまっているが。
 数学のノートを貸したのだ。その日、授業で当てられているのを忘れていた彼女が慌てて借りに来た。同じクラスの女子だったんだろう、長い髪をさらりと揺らしながら礼を述べて笑ったように記憶している。
 今思えばそんな笑顔も褒め言葉も、ただの社交辞令に過ぎないだろうに、ウェイバー・ベルベット少年の心はひどく狼狽えた。

 どうして彼女はボクを褒めてくれるんだろう?

 彼は褒められたことがなかった。成績は優秀だったので、張り出される順位表のあたりから「すげーな」なんて聞こえることはあったけれど、面と向かってそんなことを言われたことはなかった。中が良さそうな数人の男子生徒たちが点数で勝負しているのを見ても、楽しそうにその結果で騒いでいるのを見ても、羨ましいなんて感想は抱かなかった……というか、抱いているとは思いたくなかった。
 自分はあんな奴らとは違うんだ。好きで一人でいるんだ。同情なんてされるわけがないんだ。
 そう思っていないと、彼の脆い足場はすぐに崩れてしまいそうだった。
 本当は、誰か一人でいいから、彼の腕を支えてくれたらよかったのに。

 だけど硬く冷たい殻を被ったウェイバーに近づこうとする生徒はいなかった。いたかもしれないが、ウェイバーが今なお「ぼっち」である以上、氷の壁を砕くだけの胆力は誰にもなかったのだろう。
 その事実がさらに彼を頑なにした。
 友達なんていなくてもいい。いつか誰かが、自分のことを本心から認めてくれるはず。
 そう思うのは当人の勝手と言えばそうなのだが、時期が悪かった。
 折しも高校二年の夏休み直前。周りは夏休みの予定を立てる仲良しグループであふれている。やれテーマパークが切符込で安いだとか、海水浴ならクラゲが出る前にだとか、花火大会はここが何日でどこが何日だとか。
 ウェイバーは頬杖のまま溜息を吐く。
 夏休み前の生徒諸君は去年もこんな感じではあったが、今年は少しだけ様子が違った。
「日曜に海行くけど――は来んの?」
「アイツ彼女と行くって」
「マジかよ。つか彼女誰よ、初耳なんだけど?」
 この類のやりとりが増えたのだ。まぁ確かに、高校に入って一年とちょっと。男女交際に至る生徒が増えていてもおかしくはない。人間、共同生活を営んでいればなんとなく互いのことが気にかかるものである。ましてそれが、一日の大半を過ごす場所ならなおのこと。
 そういうわけで教室の中は騒がしい上に甘ったるい話題が跋扈している。
 ウェイバーはイライラしていた。
 元から暑いのも騒がしいのも嫌いだ。暑苦しい男子生徒数十人が、特に聞きたくもない話題でやかましく騒いでいるのは不愉快極まりなかった。
 ウェイバーは席を立つ。うるさいと一喝するだけの度胸がないのを、自分は平和主義だからと合理化して廊下へ出た。一応冷房が入っているはずの教室より、風が抜ける廊下のほうが涼しかった。校舎の裏手に爽やかな竹林が広がっているせいだろうか。
 風に揺れる前髪を面倒そうに指でかき分けながら、彼は歩いた。別に目的地はない。目的もなく教室を出ただけなのだから。こちらに目もくれない女子生徒たちを見ないようにして彼は廊下の端まで歩く。教室を出る前に席を立ったときもそうだった。こうも相手にされないと、本当に自分という人間がここにいるのか疑わしくすら思えてくる。
「馬鹿馬鹿しい」
 それは自虐的な思いつきをした彼自身に向けたものなのか、それとも彼が阿呆と断じている同級生たちのことなのか。いずれにせよ、それを明らかにしたところで何の意味もない。

 結局教室棟から渡り廊下を抜けて、図書室まで来てしまった。ありがちではあるが、身の置き所のないウェイバーは図書室の常連だった。借りていた本の返却期限はまだ先だったが、すでに読み終わっている。それが入ったままの鞄は教室に置きっぱなし。こんなことなら鞄を掴んで出てくればよかったと、自分の無計画さを詰ったところで引き返すのもなんとなくバツが悪い。
 どうしようもないウェイバーは、人けのない放課後の図書館で特に無目的に本を物色した。かなりの数を読んだように思うが、それでもこの本の海には追いつかない。いや別に図書館の本を全部読みつくそうと思っているわけではないが、追いかけるというか、攻略すべきものがあるというのは、ウェイバーの心を何故か穏やかにさせた。無意識にここを訪れたのも、ささくれだった気持ちを鎮めようとしたせいかもしれない。
「あ」
 ロシアの文豪の全集のコーナーで、鈴のような声が聞こえた。ひねくれ少年は声がしたほうを向かない。なぜなら、自分に向けられたものでなかった場合、無性に恥ずかしくて消えたくなるからだ。
 どうせ自分に対するものじゃないし――と、うつむいてページをめくっていると、不意に文字列に影が落ちる。
「こんなところにいたんだ」
 ウェイバーは混乱した。
 まず、声の主は先日数学のノートを貸した彼女だった。それが今、ウェイバーの傍らでニコニコ笑いながら「こんなところにいたんだ」とのたまう。「こんなところにいたんだ」つまり、彼女はボクを探していたのか? その可能性に気づいた少年は、どっと心臓が脈打つのを自覚する。
「何読んでるの? ……難しそうだね」
 覗き込んで、少し強張った表情でさえ「難しい本を読むなんてさすがだね!」に変換される。ああ哀しきかな、色々経験不足の少年。しかし勘違いは正されないまま、少年の目の前に爆弾が差し出されたのだった。
「はいこれ。この前のお礼」
 多分、ノートを貸したことを言っているのだろう。
 透明なセロハンの中に、白いレースペーパーと、それに包まれたクッキーのようなものが見える。口を閉じているリボンはピンクで、薄暗い図書館でもほんのりと光ってみえるほどつややかだった。
 (手作り!?)
 残念ながらNOである。彼女は「近所に最近できたパティスリーが美味しくて……」と言っているが、彼の耳には入らない。入っているのかもしれないが、それはもはや意味を持った言葉の羅列ではなくなっている。
 (たかがノートを貸したくらいで手作りクッキー!?)
 これに関しては認識の差。ウェイバー少年にとって微分積分も複素数平面もちょっと特殊なパズル程度の認識だが、彼女にとっては異国の言語あるいは外宇宙からの電波みたいなものだ。片や万年満点、片や万年赤点ギリギリ。後者が前者の助けをこの上なくありがたがるのは妥当なことだったし、そこにはそれ以上の意味もそれ以下の義理もない。悲しいがこれが現実である。
 (もしかして彼女はボクのことが好きなのでは!?)
 以上の誤解というか曲解がもたらしたのがこちらの結論。真っ当な人間なら「何言ってんだオメー」と鼻で笑われそうだし、事実数年後以降の彼はこの出来事を思い出す度に枕に顔をうずめて脚をばたつかせたくなるしこの場に居合わせた人間の記憶を消去したくなる。しないし、できないけど。
 (彼女みたいに可愛くて性格のいい子を彼女にしたらきっと誰もが羨ましがるに違いない!!)
 ここでそんなことを思いついてしまうのは、さっきまでいた教室でのやりとりのせいだろう。「あー彼女ほしー」なんて制服の胸元をパタパタしながらこぼしていたクラスメイトをしり目に、涼しい顔で彼女なんて作っていったらやつらの鼻を明かせるのでは? ぎゃふんと一発言わせられるのでは? もはや目的と手段がごっちゃになっているが、このときのウェイバーの頭に、決してほめられたものではない理屈があったのは事実である。
 ともかく奇妙奇天烈な化学反応を起こしてしまったウェイバーは暴走した。暴走と言っても所詮は対人コミュニケーション力に乏しい高校二年生なので、言えたことはこれだけだった。
「君のことが好きなんだ」
 言った。言ってしまった。
 ちょっとストレートに過ぎる気がしないでもないが、あと前後の脈絡が行方不明な気もするが、ストレートな分気持ちは誤解も何もなく伝わるだろう。彼女はあまりの突然さに呆気にとられているが無理もない。でもうれしいときはうれしいって、笑ってくれていいんだぜ……なーんてことを考えていたウェイバーの手を、彼女が握りしめるわけもなかった。
「どうしたの? 突然。好きって? 私のことを?」
「勿論」
 十代で一番自信満々な顔をしていた。思い返す度に死にたくなると後のウェイバーに言わしめる顔である。そしてその自信満々な顔が崩れるのもあっという間だった。
「えっと……悪いけど、私、付き合ってる人がいるから……」
 世界にひびが入ったような気がした。
「は?」
 思わず素の声が出てしまったが、「は?」と言いたかったのは彼女のほうに違いない。唖然としているウェイバーを置き去りに、彼女は図書室を出ていってしまった。小走りになっていたのだろう。遠くのカウンターから「走るのはやめなさい」と抑え気味の説教が聴こえてくる。
 でも、そんなことはどうでもよかった。
 フラれた。なんかよくわからないうちにフラれた。
 実感を伴わない失恋の痛手に打ちひしがれるウェイバーは、とりあえず持っていた本を書架に戻す。奇しくも開いていたページはツルゲーネフの「はつ恋」だった。皮肉にもほどがある。

 図書室を出ていこうかと思った。でも彼女と鉢合わせるかもしれないし、万が一彼女が勘違いヤローのことをおもしろおかしく吹聴していたら? などと考えてしまって一歩も足が動かない。遠くでチャイムが鳴っている。何時だろうかと腕時計を見た瞬間、隣の書架の列から「うぎゃ」と小さな悲鳴がした。
 小動物がつぶれたような声に、ようやく足が動く。何事かと思って書架の端から顔を出すと、そこには一人の女子生徒が座り込んでいた。
「あ」
「え」
 まさか――と、ウェイバーがわなわなふるえる唇を開くより先に、愚かにもこの第三者は自滅したのである。
「聞いてない! 聞いてないから! うん!」

 これが、藤丸立香との出会いだった。