イートイン・カルデア


 果たして外界から断絶されたカルデアに季節はあるや否や。

「夏はね、やっぱ辛いもの食べてがーっと汗かくのがサイッコーなわけじゃん? トムヤムクンとかグリーンカレーとか、あ、グリーンカレー、イエローカレー、レッドカレーの順で辛くなくなるけどこれ色的には逆だよね、紛らわしいこと山の如しだよ~。というわけで晩御飯には麻婆豆腐を所望します! まあ今は夏じゃないけどね!」
 厨房前のカウンターにやってきて何か話しはじめたかと思えば握りこぶしで力説を垂れること十数秒。エミヤは何が何なのかわからぬままに麻婆豆腐を作れとのお達しを受けて困惑していた。
「話の前後が全くわからんぞマスター」
「いやあ、なんか突然、麻婆豆腐食べたくなって。それも口から火を吹くほどからーーいやつ!」
「……」
 どうあがいても嫌なものを思い出させる要望に口元が引き攣った。
 夏は辛いもの。まあわかる。
 グリーンカレーとイエローカレーとレッドカレーの紛らわしさ。あまり関係ない気がするが、言われてみれば紛らわしいというのもわからないでもない。山がどうこうはこの際無視しておくが。
 首をひねっていると、エミヤが麻婆調理を渋っているとでも思ったのか、彼女はあからさまに駄々をこねはじめた。
「麻婆食べたい! まーぼー! まーーぼーーー!」
「わかった、わかったからテーブルを叩くのはやめろ」
 子供か。
 呆れながら、「わーい」と諸手を上げるマスターをエミヤは一瞥する。ろくすっぽ食材も切れぬマスターが「リクエストしたんだからお手伝いしなくちゃね」と腕をまくるのを必死で止めていると、なんだか昔こんなことがあったような気もしてきた。その正体はすぐに思い出せたけれどすぐに振り払う。むなしい感傷にすぎないから。

 中華鍋に油を熱し、にんにくと唐辛子、調味料を炒めはじめると香ばしい……いやむしろ刺激臭めいたものが鼻を刺す。臭う臭わないどころではない。痛い。今の時点でこれなのだから、四川麻婆のキモである香辛料・花椒を、マスターに指定されただけ投入したら大変なことになるのでは。
「……マスター、激辛というのはやめないか? 過度な辛みは味を損ねるし胃はもとより体に悪い」
 今のままでも十分辛みのある麻婆豆腐だぞと説得を試みるが、マスターは頬杖をつき組んだ両手で口元を隠すどこかの司令ポーズで遠い目をした。
「たとえ死ぬとわかっていても戦わなければならんときがあるように……おなかをこわすとわかっていても食べたいものはあるよね……」
「後者は義務ではなく願望になっているぞ」
「いいから花椒は大匙2! に!」
 ピースサインを作ってせびるマスターが調理場を覗き込むように身を乗り出す。危ないぞと言うより先に刺激臭に目鼻をやられたらしい。
「むあっ……!?」
「それみたことか」
 ちなみにエミヤは最初の一嗅ぎ以降、嗅覚だけ遮断している。遮断しても目からしみてくるが。直撃を受けたマスターは声にならない声を上げながら顔を覆っているので危険性を理解しただろうと思っていたら、逆だった。
「さ、最高じゃん……現時点でこのスパイシーなにおい……どんなモンスター麻婆が生まれるのかわたしゃ楽しみだよ……!」
 ぐっと親指を突き立てるマスターにもはや何を言っても無駄な気がしてきた。もうこうなったら、一度くらい痛い目を見た方がいいのではないか?
「……忠告はしたからな」
 小さなボウルに取り分けておいた花椒を一気に投入すると、これまで以上の刺激が熱気と共に立ち上る。マスターは「目が、目がぁ~!」と言いながら悶絶しているがまったく不可解なことに、非常に楽しそうな顔をしていた。

 そうして出来上がった麻婆豆腐は、もうなんというか赤い。見たことないくらいに赤い。ラー油の赤に花椒の黒がまがまがしい。我ながらダークマターでも生成してしまった気分だ……と、神妙な顔をしているエミヤをよそにレンゲ片手のマスターの顔は晴れ晴れとしている。
「やばい、やばいよ……こんなおいしそうな麻婆はじめて見た……いただきます!」
 レンゲにすくわれた豆腐は下茹での甲斐あってぷるぷるだし、それをコーティングするような、ごま油とラー油の絡んだ牛ひき肉は食べごたえを重視して大きめに刻んである。見ているだけで生唾があふれそうだ。辛いに違いない、でも美味しそう……。マスターは意を決したように口を開き、レンゲいっぱいの麻婆にくらいついた。
「かっ……ら!! すごい! 辛い!! なんだこれ!! からいけどうまい!」
 口に入れた瞬間に広がる甜麺醤の風味、それを追うようにバリバリと引き裂くような辛さの刺激が口の中に染みわたる。さすがに口から火を吐くことはなかったが、花椒特有の痺れにも似た辛みは全身から汗を噴出させた。
「辛い、っていうかもう痛い! なのにうまい! とめられない!」
 途中で水を飲んだり食べるのをやめたらおそらく続きを再開できないだろうという強迫観念めいた確信に追い立てられ、二口三口と食が進む。額に汗を浮かべながら何かに取りつかれたように麻婆豆腐をかきこむマスターを、エミヤはもとより遠巻きに様子を窺っていたサーヴァントも若干引き気味に見守っている。
「エミヤも食べなよ!」
 辛さのせいか地か不明だが妙にハイテンションになってしまったマスターに薦められるのを断ると、彼女は手当たり次第に麻婆勧誘を始めた。ランサーのクー・フーリンは「俺は麻婆豆腐を食わない誓約をだな……」とわけのわからない言い訳を始めるし、子ギルは「ええと……麻婆抜きなら……」とあいまいに笑って逃げていく。タマモキャットにいたっては香りを嗅ぐや否やに「ぬぁぎゃ!」と叫んで退散した。彼女でも尻尾を巻いて逃げるほどのものを作ってしまったのかと思うと、エミヤちょっとショック。そんな気分だった。
「おいしそうな香りだね、麻婆豆腐か」
 そんな中で唯一好意的に接触してきたのがアサシンのエミヤだった。弓兵は一瞬表情がこわばってしまうが、何食わぬ顔で調理器具を片付け始める。カウンターの、マスターの隣のスツールに尻を半分ほど預けた彼は穏やかに笑っていた。一見しただけではわからぬ程度ではあるけれど。
 違う。同じ顔だけど彼は違う。わかっている。むやみやたらに気まずさを感じる必要もない。彼は、自分のことを知らない「エミヤ」なのだから。
「おいしいよお~こっちのエミヤが腕によりをかけてスパークしたからね」
「スパークしたのはマスターだけだと思うが……」
 レンゲで人を指すのはやめなさい。と、たしなめるが言っても聞かないだろう。アサシンのエミヤはほとんど食べ終わった皿をちらりと覗きこみ、「赤いなあ」と目を少しだけ大きくする。
「なんだかものすごく辛そうだけど……実際辛いんだろうね……」
「辛うまだよ。エミヤは辛いの嫌い?」
「どうかな、あまり食事に頓着したことがないから……」
 わかるような気がする。彼も「誰か」と同じく、ジャンクフードばかりを好んで食べていたのだろうか。それを知ってか知らずか、「食こそ命の根源」論者であるマスターはここぞとばかりに目を輝かせて勧誘麻婆。
「食べてみなよ~おいしいから!」
「いや、僕は……」
「まあまあそう言わずに騙されたと思って~」
 こういうときの彼女はかなり強引で、ちょっとやそっとでは引くことがない。カルデアの中でも比較的新顔ではあるが、アサシンのエミヤのほうもいい加減それを思い知ったのだろう。何度も食い下がられてうすく苦笑を浮かべる。
「じゃあ、ご相伴に預かろうかな」
「だってさ、エミヤ! あとわたしにもおかわり!」
「……了解した」
 作りすぎたようにも思っていたがこれならなんとか消費できそうだった。マスターとアサシンの胃の安全はさておき。深めの皿によそった麻婆豆腐を手渡すと、低い声の「ありがとう」と共に受け取られる。くすぐったい。それをごまかすように視線を逸らしてしまった。
「言っておくが相当に辛いからな?」
「ああ、においだけでわかるよ。……うん、いただきます」
 念押しを受けた後、最初の一口が食される。
 案の上と言うべきだろうか。生気の欠けていた目が見開かれ、充血すらし始める。さしずめ内心「――辛っ! う、っわ辛っ、かっらー! なんだこれ……想像以上に辛いぞ……!?」と言ったところだろうか。しかし麻婆をすくうレンゲは止まらない。同じく隣で麻婆を味わうマスターには、彼の魂の叫びが聞こえるようだった。「口にするたび血が逆流する……腕が震えて、汗が止まらない……なんて辛さだ……! けど……いける……? いけるぞ……! この沸騰するような辛さがむしろいい!」わかる、わかるよその気持ち! 私たちの血管にはきっとラー油が通っている!
 アホが二人に増えた。と、アーチャーは微妙な気分だった。大体、辛みというのは味覚ではなくて痛覚の一種だというのが通説だ。刺激物ならなんでもいいのか君たちは。そんななんともいえない感慨だったのだが。
「うまい……!」
 アサシンのその一言は十分すぎた。ああ、昔こうやって褒めてもらうことが何よりも嬉しかった。それは自分が元いた場所の話で、彼ではない彼のことで、ここでするべき話ではない。あの、特異点となった冬木で現れた彼と、その世界の自分が接触することはないのだろう。聖杯は解体され邂逅の原因そのものが取り払われてしまったのだから。それでも自分は彼を知っている。彼は自分を知らない。それは自分を、何か悔しいような、悲しいような気持ちにさせた。ぬるい感傷だというのはわかっているし、観測しうるもののうちどれが最善の世界なのか、というような命題は論ずるに値しないものでしかない。
 それでも「エミヤ」は今このとき、確かに嬉しかった。
「こっちのエミヤはねえ、料理が上手でしょ?」
 マスターの問いかけは気の抜けた声音だった。二杯目の麻婆豆腐に顔を赤くしながら、同じような顔になっているアサシンに笑いかけている。マスターは現界してすぐのころ、頑なだった彼をあれこれ引っ張り回しひっかき回し、根負けさせる形で笑わせた。そういう人間なのだ。心を閉ざしていた少女に笑顔を取り戻させた誰かによく似ている。
「ああ、これは、本当に、うまい」
「だって! よかったね! おかわり!」
「まだ食べるのか!?」
 口元に赤い油をつけたまま皿を突き出してくるマスターに、懐かしい面影を見た気がした。こうやって引っ掻き回す誰かに、食事を供していた「いつかのどこか」を。なんだかんだで何もかもを巻き込んでいく、恐ろしいまでの陽の気を放つパワフルな誰かがここにもいる。きっと自分だけではなく、目の前の「エミヤ」もそうやって絆されたのに違いない。実際、彼は無意識に「いつかの常夏の海」を思い出そうとしていた。朗らかな笑顔の少女を。
 
「これおいしいよ、世界が元通りになったらレトルトにして売ろう。カルデア麻婆。いける! おみやげにいかがでしょうか?」
「売れんと思うぞ……」
「いや、もっと自信を持っていいと思うけど」
そういう問題ではないのだが。
 不思議そうに目を丸くしている二人をふっと笑った瞬間、うっかり嗅覚遮断を解除してしまった。
 大量の花椒はやはり、鼻にツンとくる。