ルルハワの二人

 夕暮れ時はどこか物悲しい――それはいつの季節でも同じの筈なのに、とりわけ夏は寂しさが強くなる。紺青に染められていく水平線の橙色を眺めているだけで、それがもう二度と得られないような、今だけのものであるような、そんな切ない気持ちになってしまう。目の前にいる人が、ここではない場所を見ようとしているからだろうか。それとも、わたしではない誰かを探しているから、だろうか。
「先生、溶けちゃうよ」
 わたしの声は波の音にかき消されず、彼の耳に届いただろうか。「うん」と一つだけ返事をしても、頬杖のままスプーンに手をつけようともしないのだから、やっぱり聞こえていないらしい。
 薄い硝子の容器のなかで、クリームがかったオレンジのシャーベットが輪郭を曖昧にしていく。てっぺんに添えられたミントの葉は、潮風に瑞々しさを奪われて久しい。
 何があるのだろう。その視線の先に何が、見えているのだろう。
 首を回して目をこらしても、わたしの目には何も映らない。だからきっと、彼はわたしの知らない何か――誰かのことを、考えている。
 一際大きな波が寄せる。空調があるはずもないホテルのデッキに先生を連れ出したことを、わたしは今更後悔し始めた。海が見える場所で食事なんて、誘うんじゃなかった。こんなことならいつも通り、ビュッフェでもなんでもいいから、ホテルの中で過ごせばよかった。
 そうは思ってみても、ようやく作業の目処が立って休憩できたのだから、ちょっとくらいは思い出になることをしてみたかったのは事実だし――先生は街に連れ出されるよりはここで食事を選んだのだから、ちょっとは楽しそうにしてくれると思っていた。とどのつまりわたしは勝手に盛り上がって勝手に期待して、勝手にがっかりしているだけなのだった。
(先生のバカ……)
 足下で、砂が濁った音を立てた。上の空の先生はなぜかそれでこちらに意識を向ける。
「――すまない、考え事をしていた」
 確かに申し訳なさそうな顔はしているけれど、呼びかけてもほぼ無反応だったくせに物音でこうなるってどういうことなの――と、言いたいのを我慢して「ううん」と物分かりよく笑って見せる。
「何、考えてたの?」
 だからこのくらい、聞いてしまってもいいだろう。答えてくれなくても、それは駄目で元々というやつだ。わたしは先生の、過去にも未来にも関われないのだから。
 やわらかい風が吹いて、むき出しの脚に砂の粒がはらはらとふりかかる。太陽はとうに海の向こうに消え去り、ホテルのスタッフが各テーブルのキャンドルに炎をともすため近づいてくる。
 夏が寂しいのか、夕暮れが悲しいのか、それともわたしが単にセンチメンタルになっているのか。わたしにはわからない。先生が少しだけ、うれしそうに笑っている理由もわからない。
「いつか――」
 先生が口を開いたタイミングで、二人の間のキャンドルに炎が宿る。ウェイターと目礼を交わし、先生は煙草を口に咥えた。
「いつかどこか……例えば地中海に面したこんな場所で、同じような場面に出くわした、あるいは――出くわす予感がする」
「……?」
 占い師のような台詞に、わたしは首を傾げるしかなかった。先生は相変わらず笑いながら、煙草に火をつけた。
「繰り返されるこの夏のいつか、かもしれない。遠いどこかの世界で、繰り返さない一度きりの夏を過ごしたのかもしれない」
「わからないよ……?」
 白い麻のシャツにライターを仕舞い、細い煙を口から逃がしている。先生の頬は、炎に照らされて揺らめいていた。幻想的な光景は現実感を薄めていく。変なことを言い出した先生が、今ここにいることを疑ってしまいそうになる。
「うん、私にもよくわからん。ただ、君とこうして食事をするのは初めてとは思えないし、まして最後でもない気がする。いや、ほぼ確信だ」
 海からの風が吹く度、煙の筋をかき消していく。キャンドルの炎も同じように揺れて、二人の不確かさだけが際立っていった。
「希望的観測とか、でまかせじゃない……と、言ったところで信じてもらえないだろうな。そう思って、何も言えなかった」
 ああ、こんなにも声は確かに聞こえるのに、証明してくれるものは何もない。永劫信じていたいのに、それすらできない弱さが嫌になる。
 でも――
「私は君と、これきりではないとわかったから――それがうれしかったのさ」
 そうやって笑ってくれる顔をずっと覚えていられるだろうか。覚えていても、いいのだろうか。
 いつの間にか星が出ている。砂の粒ほどの大きさのそれらは、やがて空を覆い尽くすほどに姿を見せ始める。
 わたしはテーブルの上に手を投げ出す。先生は少し目を丸くしたかと思うと、すぐに穏やかな表情を浮かべてそれを握ってくれた。
 星がいくつも輝いている。夜空はまるで砂浜のようだ。
 洗い流す波も寄せない星空の下で、わたしはただ、この人に見失われないようにと、願うだけだった。