Between the Sheets

一つのベッドで


 規則正しい秒針の音。乾燥した唇。いやに暑苦しい自分の身体。
 主に不愉快な要因ばかりのせいで目を覚ますと、まずはつけっぱなしのテレビが目に入る。大きなモニターいっぱいに映されたゲームの画面。音はない。ここはわたしの部屋ではない。
 なんでだっけと考えるよりさきに、新たな不愉快の原因に気がついた。低く震える楽器のような音、これは、イビキだ。
「……」
 寝返りをうって背後を振り返る。先生が寝ている。イビキなんて好んで聞こうとは思わないけど、この人でもイビキをかくのはとても意外で、おもしろかった。もっと豪放でがさつな感じの男性ならまだしも、この人は上背こそあれ線は細い。その身体からがあがあとイビキが聞こえるのだから、これはもう……笑いを堪えているわたしを褒めてほしいというものだ。
 ところでなんでわたしが先生のベッドで寝ているのかというと、別段艶っぽい事情はなく、単に昨夜二人でゲームの対戦に興じて寝落ちしたというだけのこと。ただ、対戦中はわたしも先生もお行儀よく床の上に座っていたから、先に寝落ちた方を生き残りがここに引き上げたのだろうことはわかる。まあ、多分後者は先生だ。いくら線が細いとはいえわたしには先生を担ぎ上げるほどの腕力はない。
 パジャマではない、普段通りの服が息苦しい。先生だってわりと着込んだ真冬の装いなので見ていて暑苦しい。格好が格好だし暖房もつけっぱなしだ。掛け布団も毛布もないが、きっとどちらかが、あるいは双方がベッドの下に蹴り落としたのだろう。残骸の切れ端だけが未練がましくマットに引っかかっている。
 わたしはのどが乾いていた。乾燥しきった部屋の中には、飲み物の類いはない。キッチンまで水を取りに行くしかないのは理解していても、寝起きの身体は言うことを聞かなかった。
 それに、珍しい人の寝顔を見るのもそこそこ楽しい。
「ひげ……」
 まじまじと見てみると、頬と顎の間あたりで髭が伸び始めている。この人のことだからふにゃふにゃした髭なのではないか。そんな思いつきに、わたしはいてもいられなくなる。
「わ」
 当たり前だろうけど、伸びかけの髭は柔らかくなんてなかった。人差し指と中指の腹で触れるとよくわかる。先端の尖った軽い痛みがちょっとだけ心地いい。
 わたしは調子に乗った。手のひらを顎から頬に沿わせて、じょりじょりとやってみる。こんなことをするのは多分、小さい頃にお父さん相手にした以来だと思う。
「んふ」
 笑いがこみ上げた。先生がお父さん。それが妙にツボに入ってしまって、わたしはぞりぞりしながら背中を丸めた。喉の奥で、水の中から泡が浮き上がるときみたいな音がする。人は笑いを堪えていると、こんな奇妙な声音になる。
「……」
 先生が目を覚ましたのはそんなときだった。ゆっくりと、鯨か何かのように目だけを開けて、眉を顰めていなくてもお前は何をしているんだと言いたげなのが伝わってくる。
 わたしは別に、何を言うでもなかった。髭が伸びているのが楽しくて、わたしは言葉を知らないこどもみたいに笑うだけだった。
 先生は目を閉じる。わたしには何も言わず、されるがままだった。その受容はわたしのあどけないところを十分に満たしてくれるほど、”お父さん”だった。
のだけど、
「水」
 いきなり視界の半分が奪われる。同時に鼻が痛くなる。何かと思えば先生がいきなりわたしの鼻をつまんでいた。
「いひゃい」
 なんでこんなことをするのか。髭をじょりじょりした意趣返しなのか。それならせめて、手加減してほしい。
「喉渇いた」
 先生の声は掠れていた。そりゃ、わたしだってそうなのだから、先生の渇きも理解できる。だからって、人の鼻をつまんで言うことを聞かせようとするのはどうなのだろう。
「自分で取ってくればいいでしょ」
 両手でなんとか先生の手を引き剥がす。真っ赤になっちゃったと言うと、少しは高くなったんじゃないかと先生。誰が鼻ペチャだ、余計なお世話だ。
「煙草吸うからその間に取ってきてくれ。コーヒーでもいい」
「やだ」
 なんでわたしが取りに行くこと前提なのか。肘を立てて枕代わりにしている先生を下から睨んでも特に意味はなかった。先生は片手で煙草を探り当ててもう咥えている。
「寝煙草は危ないよぉほら先生も台所行こうよぉ」
 ライターで火をつけようとそこらをまさぐる手を掴んで、わたしはブンブン振り回す。その拍子で先生の肘枕は崩れて、波打つようにマットが揺れた。
「仕方ないやつだなお前は」
 先生は怒らない。笑っているのか、口元から煙草がポトリと落ちる。
 鼻先に転がってきたそれは、先生によく似たにおいがした。逆だってのは、まあわかっているつもり。



年越しそばの話


 くしゅん、と、自分のくしゃみのせいで立香は目をさました。
 のっそりと起き上がると、どうやら自分はベッドの中で寝ていたらしい。しかも、服もほとんど着ないままに。
 あたりは薄暗い。明け方なのか夜なのかわからないのは、寝入ってしまったときの状況が思い出せないからだろう。ただ、毎晩共に寝ている相手の姿がないことは明確な異常だった。彼がいたはずの場所に手のひらをあてても、そこは冬の朝のように冷たい。
 どうやら自分だけ置いてどこかに行ったらしい。寝床がここまで冷たくなるには、トイレ程度では長すぎる。寝ている立香に気を使ったのか煙草をどこかに吸いにいったのだろうか。そのほか、いくつかの可能性を思い描いては今一つ決定打に欠けるようでもやもやし、立香は唇を尖らせた。
「どこ行ったのかな、もう」
 ヘッドボードのライトをつけて、床に放られた下着を探す。彼の服と下着はないので、共に全裸になった相手はすでに着衣を整えて別室にいるのだろう。まあ、いくら自宅とはいえ全裸でうろうろするほど無頓着な人物でもないので当然だ。おまけに真冬だし。
 おそらく眠っている間は彼の服の下にあったのだろう。皺になりかけたショーツを穿いて、あとは面倒なので上のパジャマだけを着て、長いガウンを羽織ることにした。持ち主が長身のため、立香はその裾をひきずりながらドアを開けて外に出た。スリッパを履いていても、真冬の冷たさは中々堪える。

「何してるの……? そば?」
 結局彼――エルメロイⅡ世を見つけたのはキッチンだった。明かりが漏れていたのはそこだけだったので早いものだった。
 そこで彼が何をしていたのかと言うと、コーヒー用のバリスタケトルで湯を沸かしていた。それだけならまあ、コーヒーが飲みたかったのだろうと予想できたのだが、この秋コーヒーメーカーを導入したのだ、目的がコーヒーとは考えにくい。怪しむ立香がこっそりと視線をさまよわせた結果、見つけたのは赤いふたのインスタント食品だった。
「なんだ、起きたのか」
 エルメロイⅡ世は、別に驚くでもなく淡々と立香を振り返る。パジャマを上下着こんでさらに立香のストールを肩から無造作に垂らしている。人のを使ってと呆れそうになったが、自分だって人のガウンを着ているのでそこは飲みこんだ。それより。
「お腹すいたの?」
「ちょっと小腹が」
 珍しいこともあるものだ。基本的に小食でジャンクフードの類は食べない彼が、カップそばを食べようとしている。赤いカップは半分剥がされているし、スナック菓子みたいな天ぷらはビニールに入ったまま横に置かれているので、そばを食べようとしているのは間違いない。
 しかしなんだってカップそばなんてものがここにあるんだろうか。と、立香が怪訝な顔で彼の傍らに近寄ると、
「君の実家から届いただろう、こっちには蕎麦なんてないだろうから年越しにでも食べなさいと」
 君のお母さんが。
 そう言われてようやく、そんなこともあったなと思い出した。今月の頭くらいに、日本から大きな箱が届いた。中身はまあ、だいたいが食料品。調味料なんかは素直にありがたかったけれど何もここまで大きな箱にしなくてもいいだろうに。呆れればいいのか怒ればいいのかわからないままお礼の連絡をすると、向こうでは「どうせ送るんならまとめて送った方が経済的でしょ」と倹約家らしい返事。いずれにせよありがたいことには変わりないので、素直に受け取ることにした。隙間を埋めるように詰められた菓子やら乾物やらにまじって、カップそばは確かに二つ、入っていた。
「そんなこともあったね」
 見上げた先の顎に、伸びかけた無精ひげが見えた。年末年始の休暇中、彼はいつもより少し、自堕落を加速させていた。それが珍しくて触れようとしても、もう拒まれない。何せ眠る前まで散々、この人に愛されていたのだから。
 ケトルの底は、火に熱せられて叩くような細切れの音を上げている。時刻は23時を半分ほど過ぎたころ。どうやらそれほど長く寝ていたわけではなかったらしい。立香はエルメロイⅡ世の腰に抱きつくように腕を廻した。
「家の近くにね、おいしいお蕎麦屋さんがあるよ」
 うん、と、彼は一言頷く。
「エビ天がおいしいの。大きくて、サクサク、ぷりぷり」
「そうか」
 大きな手のひらが、立香の頭を抱き寄せるように撫でる。
「来年はそこで年越しをしようか」
 少しだけ驚いて、立香は黙ったまま彼を見上げた。
「君のご両親に挨拶もしないと」
 目を細めて笑うと、エルメロイⅡ世は立香の額に口づける。
 ああ、こういうところがズルいと思う。それとなく「今度いっしょに食べようね、エビ天そば」そう言いたかったのに、それどころじゃないカウンターを喰らってしまった。
 ケトルの口が、湯気を勢いよく吐き出しはじめる。きっと顔が赤くなった自分の代わりのようで、立香は笑った。
「――うん、来年も、これからも、ずっとよろしくね」
 抱きつく腕に力を込める。外はきっとお祭り騒ぎだろうけど、このキッチンだけは穏やかな静寂に満ちていた。
 今年もあと15分。きっとそばを食べているうちに、新しい年になる。