「心臓に悪い」

 白い雪は踏みしめる度、押しつぶされて悲鳴を上げる。足音は二人分。一つは規則正しく、一つはふらふらとぎこちない。前者が私、後者が立香。
「……さむい」
 立香は泣き出しそうな顔をマフラーに埋めて、五分に一度は愚痴っぽく溢している。
それはまあ、そうだろう。雪は止んだが積もったものは溶ける兆しすら見せず、気温は相変わらず低いまま、服の隙間から冷気が忍び込む。
「先生は寒くないの……」
「ああ、特には」
 寒いか寒くないかで言えば、当たり前に寒さは感じる。だが立香のようにめそめそと泣き言を溢すほどではないし、大体こういうときは口に出したら余計悪化するものだ。
「寒い寒いと言うから寒いんだ」
「言わなくても寒いんだからこの耐えがたい心情を口から発散させてもいいでしょ」
 そうしなければ負の感情がどろどろと渦巻いてこの場にうずくまってしまうのだと言う。なるほど、それなら仕方ない。
 道は続く。目的地まではまだ遠い。
「……戻ったら、あたたかいココアでも淹れてやろうか」
 何の気なしの思いつきだった。ココアなんてここ十年ほど口にもしていないものが思いついたのは、他ならぬ立香の日常のせいだろう。
「ほんと?」
 なじみのある単語に立香は目を輝かせる。頬が赤いのは寒さのせいだろうが、多少は昂揚のせいもあるように思えた。
「ああ」
 さて、ココアなんてものはどうやって作るんだったか、と、考えを巡らせる私はふと気付く。立香はむき出しの指先に息を吹きかけて温めようとしていた。
 手袋も持っておらず、コートにもポケットらしきものがない。そんなことに今更気付いて、口の中が苦くなった。
「立香、」
 気付かなくてすまないと、外した手袋を差し出す。彼女には大きすぎるだろうが、ないよりマシだろう。幸い、外側は革、内側は起毛のネルであたたかい。
 立香は差し出された黒い革手袋をしばらく見つめていたが、首を横に振って「いらない」とつっぱねる。どうしてさっきまでよりもずっと、不機嫌そうな顔になっているのだろう。
「寒いんだろう、こんな手袋でもないよりはいい」
「そうかもしれないけど……そうじゃなくて……」
 はっきりしない。何が言いたいのか、そもそも言う気があるのかないのかよくわからない。
 いつの間にか立ち止まっていた私たちの周りに、さらに雪は降り積もる。油を売っている場合ではないというのに。
「じゃあなんだ、何が言いたいんだ?」
 さっきまで、寒さをさほど感じないと言っていたが前言を撤回する。私だって寒いし、早くあたたかい室内に入りたい。こんな雪原のど真ん中で立ち尽くしている暇はない。
 苛立ちを含んだ私を立香は一度だけ軽く見上げ、また視線を元に――広がる雪の上に、戻す。
「手、つないで」
 雪が音という音をすべて吸い込んでしまったようだった。白い雪、白い呼気、真っ赤な立香の頬。私は何も言えずに、口を引き結んだまま瞬きをしている。
「――何故?」
 かろうじて口に出せた疑問は、立香をさらに追い詰めたらしい。
「……寒いから」
 わけがわからないが、ふて腐れている立香をこのままにしておかないためには、手をつないでやる必要があるらしい。
「そ、うか」
 立香は手袋はいらないと言ったので、私はまた手袋をはめようとするのだが、
「そうじゃないでしょ!」
「!?」
 理不尽にも手袋を奪われる。お前、さっきいらないと言ったじゃないか、と、言いたいところなのだが、それより先に私の指先が奪われる。
「先生が手袋してたらわたし、寒いままでしょ」
 きゅっと握りしめてくる指先は冷たかった。反射的に溢すと、立香は拗ねたように鼻を鳴らし、私とつないだままの手を、私のコートのポケットにねじこんできた。
「……なんだね、これは」
 心臓に悪い。
「冷たいんでしょ」
 まったくつながりが不明瞭な会話だった。狭苦しいポケットの中で、私の左手と立香の右手がもつれ合っている。しばらくするとそこだけ、むやみやたらと熱くなる。冷たいままの右手もポケットに突っ込むと、立香は小さく笑う。
「……あったかい」
 マフラーに埋めて隠したつもりだろうが、聞こえてしまったものは仕方ない。私は彼女の鼻先で溶ける雪の結晶から視線を外し、とうにあたたかくなった小さな手のひらを逃すまいとした。