薄ら暗いSSまとめ

接吻


「それじゃあ、失礼します」
「ああ、おやすみ」
 断絶するように閉まるドアを見送って、やさしく告げられた「おやすみ」を、とろけるような微笑みを、何度も何度も反芻する。清潔がすぎるほどに均一な通路を歩く間も、ずっと同じことを考えている。もっともっとと、強請ることがやめられない。
 わたしの願い、わたしのわがまま、わたしの、欲望。
 ともすれば止まってしまいそうな歩みをどうにかそのまま維持して、自分の部屋にたどり着いた。二十二時。こんなに早く追い返されるのは、わたしがまだこどもだからに違いない。
「……眠りたくなんかないのに」
 倒れ込むようにベッドにうつぶせて、大きな枕を抱きしめる。さみしくてさみしくてしょうがない心を埋めるための、空しい代替行為なんてことは知っている。溜息のような深呼吸。どうせやるなら、先生に抱きついて思いっきり息を吸い込みたい。
「……」
 煙草のにおいが、そこかしこに移っている。
 髪も服も、先生のにおいに染められている。
 どうにかなりそうだった。ここに先生がいないのに抱きしめられているような気になって、先生のにおいがするのにここに彼がいない理不尽が許せない。
 思い立ったら、もう止められなかった。

「……どうした?」
 きっと五分と経っていない。先生はまたドアの向こうに現れたわたしに、すごく驚いているようだった。
「何か忘れ物でもしたのか?」
 心配するような声音が辛くなる。わたしのようにやましいことなんてちっとも考えてない言葉だったから、後ろめたくてつい俯いてしまった。そのまま、首を横に振る。
 開きかけた口は、一旦ためらいのままに閉ざされた。きっと先生は困るんだと思う。それでもわたしは、止められなかった。
「立香、?」
 通路から一歩踏み出した勢いのまま、先生の胸に飛び込む。いっそう強い煙草のにおいが、甘い毒みたいにわたしの思考を溶かしていった。
「ここにいたい」
「――何?」
 わたしの肩を支えるように 振れている先生の手が、熱く感じる。そんなものはきっと錯覚にすぎない。そんなの、知ってる。
「だって一人になっても、先生のにおいでいっぱいで、さみしくて、やっぱり一緒がいいの」
「……」
「朝までずっと一緒にいて。朝になっても、どこにも行かないで」
 気付いたら、背中に回した両手を、指を絡めて組んでいた。
 先生は、何も言わない。何も言わず、何もせず。わたしはただ、心臓の音を聴いていた。熱い血潮が先生の全身を巡っている様を想像しながら、その流れに身を委ねてみたいと考えていた。
 このまま、時間が止まってしまえばよかった。
 二度とこない朝まで、眠らないわたしたちが抱き合って過ごせたらよかったのに。
 先生は、どう思う?
 胸に擦り付けていた顔を上げると、何も感じないような、何も感じていないと思わせたいような、無表情がわたしを見下ろしていた。拒むことも受け入れることもしないそれは、嘘もつけなければ正直にもなれないこの人らしいと思った。
 大きな手のひらが、わたしの頬に触れる。クリムトの絵画のようにすくいあげられて、わたしのかかとがそっと、地面から浮き上がる。
 背後ではドアが閉じられた。いずれくる朝のために、夜はさらに更けていく。





おまえの心臓がほしい


 鼻先を撫でて消える煙の香りに目を開けると、流れる黒の髪がところどころ絡んでほつれ、汗に濡れた肌に張り付いているのが見えた。つかの間の浅い眠りから覚めた彼女に背を向けるようにして、彼は静かに煙草を吸っている。着ていた衣服を再び身に着けるのも億劫だったのか、気だるげな体はむき出しのまま、まろやかな暗い影を作っていた。
 ゆっくりと彼女はまばたきをする。まだ、彼は獣の気配に気づいていない。水辺の草食動物のように、穏やかさを甘受していた。
 その無防備を引き裂くような痕。
 傷痕は消えず、皮膚は引き攣ったままにある。あの日狂戦士によって穿たれた傷が、今も彼の腹部に、背中に、残っている。
 見るたびに、少女は慚愧に身を焼かれる思いだった。
 あのとき狙われるべきはマスターである自分だったのに、そうならなかった。単純な理由だ。自分よりも彼の方が優秀な魔術師で、あの場で一同の指揮を執っていたのも彼だった。自分が取るに足らない存在だったというのは身に染みて理解しているし、ただの事実を忌んでいるわけでも悲しんでいるわけでもない。ただ、情けなかった。致命傷を受けながらも「狙われたのが自分でよかった」と笑った彼が、彼の意図がわからず、悔しかった。
 戒めなのだと苦笑する顔が羨ましかった。だって、自分には何もない。二度と消えない痕があれば、記憶を奪われることだってないだろうに、それができない。
 その傷はわたしのものだ。
 触れた肌はしっとりと吸い付く。指先を滑らせると、彼は驚いたように振り返り、「起きていたのか」と笑った。
 応えることはない。ただ彼女は、滲んでいく視界を閉じて指先にすべてを委ねるだけだった。一度すべてがずたずたになった場所、こぼれおちるいのちをとどめようと抗った細胞のあつまり、呪いと罪、傲慢と色欲。
「もう、やめなさい」
 彼は、そろそろいい加減にうんざりしていたのだ。この傷があるためにまた金の双眸が干上がってしまう。贖罪の行為のように傷痕に唇を、舌を這わせる様を黙って見ているのも真実苦痛でしかなかった。そのたびにまた傷痕が開いて、少女の唇や舌の赤と同じくらいに、鮮やかすぎる血が流れ出るような幻痛すら感じる。
 額づいている少女の腕を取ると、こんなことを口走った。
「――何を思い出したらいいの?」
 じっとりと濡れた目が、どこかを見ている。
「この傷痕がほしい。これはわたしのだもの。誰にもあげられないの。かえして」
 まったく意味のつながらない駄々。ぐったりと脱力した腕の重み。寸の間、寝ぼけているのかと思いこみ、あやしてしまうところだった。
 彼女にとっては、悪夢だったらよかったのだろう。
 あの一連の出来事は彼の中ではすでに、彗星のごとき煌きを以って昇華された。なかったことにはできない。記憶だって差し出せない。

「お前にだって、これはやれない」
 泣いても喚いてもこれだけは譲れない。おまえこそが守り通した、あるいは手に入れた、その譲れぬ最たる存在なのだ。そう言いたげな濃緑の目が優しく鈍く笑っている。
 抱いた相手をそのまま腹の上に寝かせているのに、ぐちゃぐちゃに泣きじゃくるものだから、ひどい有様だった。唇で拭っても拭っても、後から後から涙の雫が溢れだす。さながらシーツの海という比喩が現実になりそうなほど。潮のような怒涛もお構いなしに彼はめちゃくちゃに、細い体をかき抱いた。縋っているのはどちらなのか、もうよくわからなかった。
 唇も肌も粘膜も、重ねるたびに融和して生まれ変わっていくのだろうか。
 泣きながら、海に抱かれているような思いだった。




Beim Abschied zu Singen


 新宿から帰還するのは少し名残惜しかった。訪れたこともない冬木とは違ってここは何度か来たこともある場所だから、もうちょっとだけ歩いてみたい。それでも、カルデアの皆には心配をかけたから早く戻らなければいけない、というのは理解していた。隕石が落ちてきて強制帰還もできないと知った時のマシュの顔は見ているこっちが辛かった。はやく安心させなきゃ。大丈夫だよって言って、ぎゅうっとして、ちゃんと生きてるよって。みんなにもありがとうって言わなきゃいけないし――ああ、お腹減ったなあ。ずっとジャンクフードばっかりだったから、久しぶりに和食なんて食べたい。

 笑いがこぼれた。いのちの危機から逃れてすぐにこんなことを考えるあたり、自分でもけっこう図太いんだと思う。

 光の粒が満ちていく。指先から大気に溶けるこの心地よさにすべてを委ねる。意識が解けて何も考えられなくて、うっとりと目を閉じる。次に目を開いたら、そこは殺風景だけどあたたかい場所に違いない。もう何回も繰り返したレイシフトだけど、今回ばかりはどうしようもない安堵とともに受け入れた。

***

 カルデアに戻って、最初にただいまを言ったのはマシュとダ・ヴィンチちゃんだった。二人にもみくちゃにされるのも、痛いけれど嬉しい。ああ、生きてる。生きて大切な人とまた会えた、それが本当に、涙が出るほど嬉しかった。実際マシュは泣いていた。
「すみません、先輩が帰ってきて、安心して、涙が」
 モニタリングしてくれていたときは気を張っていたんだろうし、たった一人、新宿で死にかけていたわたしの前で弱気を見せまいとしてくれたに違いない。
「ありがとう、マシュ。大丈夫、わたしは大丈夫だよ。生きてる、ここにいる」
 ぎゅっと抱きしめて頭を撫でてあげても、マシュはただただ「はい」と繰り返すばかりだった。ダ・ヴィンチちゃんは、とても大切なものを見るように目を細めている。目じりに涙が見えたような気がしたけど、追及はしないでおこう。もしダ・ヴィンチちゃんにまで泣かれたら、わたしまで引っ張られてしまうだろうから。
 スタッフにもねぎらいと感謝を述べると、何やら妙な笑顔で入口のほうを指差された。なんだろう? と、そちらを振り返ると、
「――先生」
 わたしの大事な人が、おばけでも見たような顔で立っていた。
「……立香?」
 何を疑っているのだろう。尻上がりに呼びかけられても、困ったように笑うことしかできない。先生、どうしたの? そう尋ねるよりも早く、彼はわたしの方へとずかずか歩いてきて、
「ちょっと借りる」
 まるで物か何かをそうするように、わたしの腕を掴んで外に出ていった。マシュは驚いていたけれど、ダ・ヴィンチちゃんは苦笑していた。ドアが閉まる寸前に見えた光景からは、何もわかりはしなかった。
 カルデアの通路を先生は大股で歩いた。コンパスが違うものだからわたしは小走りになるしかない。人の後ろにくっついて移動するのは、相手の脚を踏まないようにするのが難しいし、大体腕だって強く掴まれて痛いくらい。
「先生――」
 どこに行くの? どうしたの? もしかして怒ってるの?
 何を聞いたらいいのかわからないまま、十秒ほどそのまま歩かされたわたしは、一室に押し込まれた。
「せん、」
 暗い、そこは先生の部屋だった。入室したら自動で照明が点くようになっているのに、中はすっかり暗い。きっとわたしの肩がスイッチを変に押してしまったんだろう。いきなり抱きすくめられて、壁に背中がついてしまったから。
「先生……苦しいよ?」
 壊れそうなくらいにきつく抱きしめられている、その間も彼は黙ったままだった。それどころか、呼吸の一つも聞こえてこない。ただ、胸からはきちんと、少し早めの鼓動が聞こえる。人が生きている音、いのちのあかし。
 生きてる。
「もう――駄目かと思った」
 ゆっくりと長く息を吐いて、先生は震えながらそう言った。聞いたこともないような青ざめた声は、聞いてるわたしも辛い。きっと息をするのを忘れていたんじゃなくて、何かがこぼれそうになるのを堪えていたに違いない。
 先生の口からは堰を切ったように言葉が出てくる。
「君が戻れないと聞いたとき、血の気が引いた。いや、体中の血が凍りついたかと思った。どうして止めなかったのか後悔した。どうして共にいかなかったのか憤りすら――そんなことは、どうでもよかった。ただ、もう二度と君に会えないことが、そんな理不尽が許せなかった。恐ろしかったんだ、私は」
 また、ひときわ強く抱きしめられる。苦しさはもう感じなかった。先生はきっと、一度バラバラになりかけたわたしのことを、もう一度カタチにしようとしているのだから。
「先生、いるよ、わたし、ここにいる。生きてるよ、大丈夫」
「ああ、ああ、生きてる。君はここにいる」
 確かめるように頭を抱えられて、額に口づけられて、震えた吐息を感じる。
「だからね、泣かないで?」
 背中に手を回して、ゆっくりと手のひらで撫でる。このくらいしか、わたしは知らない。人を安心させるためにできること、本当はきっと、もっとあるはずなのに。
「ばかな。私は泣いてなんかない」
 むきになった先生がちょっとだけ拗ねている。それがかわいくて、それだけ言えるなら大丈夫だと思えて、少しだけわたしは笑った。息を吸って、吐いて、先生の腕の中で笑っていられる幸福を噛み締める。背広に染みついた煙草のにおいに、ふとどうしようもなく、泣きたくなった。
 ぐすん、と、鼻をすすると、先生が「すまない」と気まずそうに口にした。理由がわからなくて見上げても、暗闇の中では何も見えない。それでも、あたたかい滴がそこに流れているような気がした。それに手を伸ばして、拭ってあげたかった。
「……情けないな、私は。本当に怖かったのは君だろうに」
 目元にキスが降ってくる。唇も吐息も震えたまま、先生はわたしを抱きしめた。
 怖いなんて、そんなことなかったよ。そう言いかけた口が歪む。強がったりなんて、今だけは、しなくていい。
「うん……。わたしもね、ちょっと怖かったし、悲しかった。先生にもう会えないのかなって、そう考えたら、」
 死ぬことよりもそれが嫌だった。なんて、馬鹿げているだろうか。
 そっと両手を滑らせて、先生の顔に触れる。目の見えない人がそうして顔を読むように、ゆっくりと彼の表情を確かめる。 
「先生、わたし、ちゃんとここにいるかな、生きてるかな」
 本当のわたしは死んでしまって、魂だけになってここに還ってきたのかも、とか、これは最期に見ている走馬灯とか夢とか、そういうはかない何か、なのかもしれない。
 そんなのは、いやだ。
 自分が今どんな顔をしているのかわからない。泣いているのかもしれないし、間抜けに笑っているのかもしれない。真っ暗な部屋の中でわたしの足元には影も見えなくて、すがるものなんて愛しい人だけ、たったそれだけ。
「ああ、生きてる。君はここにいる。ちゃんとあたたかいし、ちゃんと私に触れている」
 顎、頬、鼻、まぶた、額、唇。触れるごとに生き返るような気がした。
「ただいま、って、言っても、いいのかな」
 首に手を回してしがみつく。背の高い彼に引き上げられるように抱かれて、まるで光の海に飛び込んでいるようだった。
「言ってくれ。君が、もうどこにも――」
――ただ、もう二度と君に会えないことが、そんな理不尽が許せなかった。
 それは理不尽じゃないんだよ。
 わたしは何も言えなかった。わかっていても、今それを言ったら何もかもがバラバラになってしまう気がした。先生だって何も言わなかった。言えなかったんだと思う。わたしたちがわたしたちであるためには、いつかこの手は離れてしまうしかないとわかっている。だから、ああ、理不尽なのかもしれない。そう思うことでしか、納得できないのかもしれない。
「……だめだね、わたしたち。これじゃいつまでたっても」
 お別れもできないね。
 言いたかった言葉は、嗚咽に阻まれて消えた。それでよかったのかもしれない。言葉にすると、本当になると言うから。

<Beim Abschied zu Singen(別れに寄せて歌う) /シューマン>




 あまりそうは見えないのだが、ああ見えて彼女も人前では気を張ったり何かを我慢したりしているのだろう。たるみきった楽器の弦のような顔でぼんやりと膝を抱えているのを見ると、つい声をかけてしまいそうになる。何度か半端に開いた私の口は、その度、その気もないというのに煙草を咥えて苦みを吸い込んだ。口の中はどんどん乾燥していく。机の上にはカップの一つもなく、あまつさえ部屋は暖炉の炎でいっそう乾ききっていった。水を求めに行くべきなのだろう。しかし私は彼女が気がかりで席も立てない。いや、炎を見つめる彼女の頬に、揺れる焔がかすかな影を落としているのを、邪魔したくなかった。傷が治りかけているようなものかもしれない。あるいは日々の睡眠に相当するものかもしれない。うかつに物音を立てて、美しい獣の休息を乱すことはとても、罪深いことなのだと思えた。そして私はおそらく、それを眺めていられることを幸運に感じているのだろう。

 先生のことは、よくわからない。面倒見が良くてぶっきらぼうで、ずけずけと人を叱るくせにこんなときは何も言わない。わたしなんてこの場にいないみたいに、さっきから何本も煙草を吸っている。読んでいる本のページはほとんど進んでいなくて、わたしは罪悪感まじりに「ざまあみろ」と泣き出したくなった。暖炉の中は生き物のような炎が支配している。灰に負けそうになる度に、薪を放り込んで加勢する。緩慢な手つきでそればかり繰り返しているわたしは、炎が好きでも何でもない。ただ、不規則な動きを繰り返すものを見ているのは、贅沢な時間の浪費のようでいい気分だった。きっとわたしの背後には、ゆれる化け物のような影があるのだろう。わたしはそれに食い潰されてみたいと思った。食い潰されて転がったわたしのからだを、炎があたためてくれればよかった。きっと先生は呆れたような顔で、それでもわたしを見捨てずにいてくれるのだろう。ここはどうしようもない安全地帯だった。煙草が香るものにくるまりながら、わたしは創世の夢を見る。