期間限定二人暮らし の閑話×3

Holuday in London


「先生っておしゃれだよね」
「は?」
 よっぽどわたしの言葉が唐突だったのか、先生はネクタイを締める手をしばし止めた。軽い朝食は食べ終わり、紅茶だけがカップの中に半分だけ残っている。
居候しだしてからこっち、わたしはかいがいしく毎朝食事を作って先生を送り出している……と胸を張って言えるほど大したメニューではない。そもそも朝はあまり食べない人のために伝統的英国式朝食を作るほど手間をかけるのももったいない。
 それはさておき、先生は怪訝な顔でのっそりとネクタイのノットを作っている。カルデアで見慣れていたスーツは赤いネクタイだったけど、今日の青も中々似合う。多分、スーツとシャツの選び方が上手いからに違いない。黒いスーツは影にならないところだけ、青みがかった光沢をまとっていた。
「おしゃれだし、なんだかんだでスタイルもいいし、顔もいいし、あれ? いいとこしかないじゃん……何なのよ……」
「何が言いたいんだお前は……」
 呆れた顔できゅっとネクタイを整えると、はい、英国紳士のできあがり。無駄なく体に沿ったスーツは多分、おあつらえ、というやつだ。
「いいなあ、ねえ、先生、わたしにも服、見立ててくれない?」
 カフェオレのマグカップを持ったままニコッと笑ってみせる。この後先生は「くだらん。外見を気にする暇があったら年齢相応の落ち着きでも身に付けたまえ」くらい言う。そのお小言を聞きながらいってらっしゃーい、で、一日が開始する、はず、だったのに。
「……別に、構わんが」
「え」
 さらりと、なんでもないことのように言われてしまう。
「そうだな……今日は早く終わりそうだから、夕方でよければ付き合おう。たまには外で食事してもいいだろう」
「え? ええっ?」
 ちょ、ちょっとまって、なんでそんなにトントン拍子に話が―
「時間は後で連絡する。待ち合わせ場所は―」
 あれよあれよという間に話が進み、わたしはどこぞかの地名が書かれたメモを掴まされ、無駄に広い背中を見送っていた。バタンとドアが閉まり、足音が聞こえなくなってから、ようやく現実に引き戻される。

「……デートに着ていく服なんてない」

 そう、わたしはほとんど着の身着のままで旅をしているものだから、ラフな服はあってもちゃんとした服は一着も持っていない。ましてフォーマルな、たとえばワンピースとか? 膝が見えない長さのスカートとか? そんなものはあるわけがない。
「いや、別にデートって決まったわけじゃないけど……いやいや、食事、食事っつった! まさか先生が吉牛とか行くわけないだろうし絶対ちゃんとしたところだよね、ドレスチェックとか絶対あるよね、そもそも服買うにしても高いお店に入ったりしたら同じように……うわあああ……どうしよう……プリティ・ウーマンかよ……」
 頭を抱えてしまうしかなかった。
 ジュリア・ロバーツが店員に追い返されたならわたしなんて警備員に門前払いされるのでは!?
わたしが恥をかくのは、どちらかというとどうでもいい。でも、先生に恥をかかせるのは申し訳ないし、悔しくなる。
これは何としてでもどうにかしなければ! と、意気込んだところでわたしはただの日本人少女、町娘であり、魔法使いがガラスの靴を届けてくれるわけもなければ、話のわかる支配人もおらず、結局、一番マトモだろうと思った服で外に出るしかなかった。


「……なにをそんなにむっつりとしているんだ」
 夕暮れの街に現れた先生は冬のしんとした空気に綺麗に溶け込んで、悔しいくらいにかっこよかった。むかつく。
「いじけてなんかません」
 わたしはご指摘の通りにむっつりと石畳を睨むだけだった。完全に八つ当たりである。冗談めかして言ったとはいえこの事態の発端はこのわたしなのだから。
「いじけてるのか」
 先生は苦笑のような息を漏らした。
「……だって、こんなかっこじゃどこのお店もお断りじゃないの?」
 気に病んでいるのはわたしだけ、なんだろうか。ちらと先生を見上げると、
「は?」
 本気で何を言っているのかわかっていないような顔だった。
「……先生、プリティーウーマン観たことない?」
「ない」
 予想はしていたけど、溜息。先生相手にわたしはかいつまんだあらすじと、ジュリア……もとい、ヒロインの屈辱について説明した。もちろん、先生は納得し同情するわけもなく、こいつは何を言っているんだという表情のままだった。
「い、いいじゃないですか、わたしにとってはそのくらい、違う世界のことに思えたの!」
 なんだかんだで先生はわたしと住む世界が違うし、なんか貴族とか言ってたし、何だよ貴族って、いつの時代だよ。平安か。
「平民はそういう映画観て憧れたりするんですー」
 口を尖らせて悪態を吐くと、先生は顎に手を当てて何やらにやりと笑っている。
「意外だな。シンデレラストーリーに憧れるとは、君も案外、少女趣味というわけか」
「ぐっ……」
 うかつだった。こんな笑いのネタを提供するつもりはなかったのに。恥ずかしさで顔が熱くなる。が、それ以上追及されることはなかった。
「そう睨むな。……馬鹿にしたわけではないが、気を悪くしたようだな、すまなかった」
「いえ……別に、いいです」
 こう律儀だと拗ねているこっちが申し訳なくなる。大体、拗ねる筋合いもあったものじゃないんだけど。
 先生はゆったりと目を細め、穏やかに微笑んでいた。
「困ったな、そういう顔をされると、満足させてやらねばと思ってしまう」
「満足?」
 先生の手が、差し伸べられる。
 それに何の意味がないのだとわかっていても、エスコートなんてろくにされたこともないわたしは、身構えてしまう。
 ちゃんと、理解している。こんなのはここではごく当たり前のことで、先生にはなんの意図もないこと。だから意識するだけ馬鹿馬鹿しいし、その手のひらに自分のそれを乗せるのが、正解だってこと。
「数年前まで、いや、今もたまにあるんだが、当主殿が私を買い物の荷物持ちにしていてな。あれは本当に……たまらなかった。とはいえ、こうやって気兼ねなく入れるのはライネスのおかげだろう。……おかげというのも変な話だが」
 わたしの手を引き、先生は歩きながらそんな話をした。目的地は待ち合わせた場所の目と鼻の先だった。映画で見たような、ちょっとした階段みたいな段差のある入り口。そこをくぐると、毛足の長い絨毯と星のきらめきのような照明に照らされた店内が待ち構えていた。
「ひぇ……」
 思わずその場で立ち止まりそうになる。場違いすぎていっそ帰りたい。なんであんなことを言ってしまったのかと朝の自分を殴りたくなってきた。
「何を情けない顔してるんだ、胸を張って」
 言いながら、先生は今度は、わたしの腰に手を回す。
「へっ……!!」
 変態!! と、叫びそうになったのを懸命に堪えて深呼吸。
そうだ、これにだって大した意味はない。大方歩みを止めたわたしを促すために背中を押した、くらいのつもりなんだろう。
(き……気にしない気にしない、一休み一休み……)
 わたしは無理矢理引きつった笑いを浮かべて、先生と店員さんが話しているのを聞いていた。聞こえていただけで、内容はちっとも頭に入ってこない。その後も似たようなもので、わたしは先生が選ぶ服を言われるがままに受け取り、試着室の中に押し込まれ、店員さんの手伝いを受けながら服をとっかえひっかえすることになったのだった。
「……高そう」
 持ってこられたのは大半がワンピース、というか、そもそもこのお店がフォーマルな服しか扱っていないようで、わたしの人生においては今までもこれからも着る機会などまったく訪れないような、つまりはお上品すぎて高すぎて手の届かない服ばっかり、なのだった。
 さきほどの話から察するに、ここはレディ・ライネスがよく服を買っていた店に違いない。さもありなん。曰く、貴族のお姫様なのだから、おあつらえ以外で買うならこんなところなのだろう。何せ試着中にこっそりタグを探してみても、値段がまったく書かれていない。つまり、値段を気にして買うような庶民のための店ではないというわけだ。
 そういうお店の服を着るというのは……
「どう? 似合う?」
 
非常に楽しかった。
 
 だってどうあがいたって手の届かないものなら、割り切って楽しんだ方がいいに決まってる。開き直ったわたしは、ロイ・オービソンの件の曲を頭の中で繰り返しながら脱いだり着たりに大忙しだった。
「いいんじゃないか」
 試着室から出てポーズを決めてみせる度、先生は頷いてくれた。さすがにお高いだけあって、どの服もとてもおしゃれで、素材もよくて、着るだけで自分の格が上がったような気分になる。それに、着たことのないようなデザインだったり色だったりしても、ふしぎと似合って見える。見立ててくれという頼みに先生がばっちり応えてくれた結果に違いない。すごい。他人の才能を見いだすことにかけては他の追随を許さないという先生の才能はここでも発揮されているらしい。
「なんか、わたしじゃないみたい……」
 大きな姿見の中で、青と黒のドレスがきらきら輝いている。大きなリボンがいくつかあっても、ダーツもギャザーも控えめで実に大人っぽい。
「青ってあんまり着ないけど、これ、とっても素敵」
 くるっとターンしてみせると、悠々とお茶を飲んでいた先生が苦笑した。というか、連れに紅茶とお菓子まで出すなんてすごい店だ。わたしもほしい。
「転ぶなよ」
「転びませんよ……もう、どーしてそういうこと言うかな!」
 笑う先生はカップを置くと、わたしのそばまで歩いてくる。なんというか、こうやって隣に立たれると、
「なんだかおそろいみたい……」
 何せ朝に見送った通り、先生は青のネクタイに黒のスーツなものだから色合いがぴったり合ってしまっている。
「ん? ああ、そう見えるのか」
 しかし先生はわりとどうでもいい……というよりは、そういう見方があるのかと今気付いたような口ぶりだった。おかげで照れているのがアホらしくなる。結局外側を綺麗にしたところで町娘は町娘、貴族には釣り合わない。

 それに、魔法はいつかとけるもので、夢は必ずさめるもの。

「あー、楽しかった!」
 冬の街を、わたしは履き古したスニーカーで歩く。隣からは硬質な靴の音がわたしよりも少し穏やかなペースで響いていた。
 結局、一着も服は買わなかった。あんなに高い服を買えるだけの財力はわたしにはないし、先生には……あるかもしれないけど、わたしにそれを買ってやるだけの理由がない。見立ててくれと言っただけで、買ってもらう理由だってわたしにはないんだし。
「ありがとう、先生。シンデレラの魔法使いみたいだね」
「……フン、魔法はとけるどころかそもそも、かからなかったがな」
 どこか自嘲気味の台詞だった。今も魔術師として高みを目指そうとしている人には思うところがある言葉だったのかもしれない。
「んー……じゃあ、王子様?」
 シンデレラと言った後で思い出した。そんな歌があったはず……あ、白雪姫だった。
 わたしが思い違いを反省していると、先生はどうも、堪えていたのを我慢できなかったらしく、思いっきり噴き出していた。
「ちょっと……」
 少女趣味だなんだとからかわれていたさっきを思い出す。うかつだった。フォローのつもりで墓穴を掘った。
「口が滑っただけじゃん! ああもう! 撤回! 撤回します!!」
「そうだな、そうしてくれ。私はそんなガラじゃない」
 喉の奥で笑いながら先生は首を横に振った。
「そーですね、先生はなんか、官僚とか?」
「唐突に現実的だな……」
 まあでも遠からずと言ったところか、と、納得している横顔は、恵まれた王子様からは程遠い、苦労と挫折の苦みを知り尽くした表情だった。自分にはスポットライトが当たることなどないとでも言いたげで、つい、
「じゃあ―あしながおじさん」
 そんなことを言ってしまった。それもどうなんだろうとわたしも思うし、先生も怪訝な顔をしている。
「お前、それは……いや、なんでもない」
 何か言いかけて、先生は結局やめた。なんだろうと首を傾げると、
「まあ、そのあたりが妥当なんじゃないか……とはいえ何年もかけて面倒みるのは無理だ。できるのは、このくらい」
 先生はポケットから薄い箱を出し、わたしに差し出す。
「……なぁに、これ?」
「何も買わずに出て行くのもいかがなものかと思ってな」
 言われてみれば確かに、箱にはさっきのお店のロゴマークが入っている。いつの間に買ったんだろう。というか、
「もらっちゃっていいの?」
「私が持っていても仕方ない」
 苦笑する先生が開けてみろと言うので、素直にそれに従った。出てきたのは、
「――きれい」
 青いサテンのリボンだった。夕闇の中でもなめらかなツヤがよくわかる。きっとすべすべしているだろうけど、触るのを躊躇ってしまうほどだった。
「ありがとう……大事にします」
 閉じた箱を胸に抱く。サプライズの贈り物なんて、憎い演出だ。先生だって王子様の素質、十分あると思った。
「大したものじゃない。大事にしてくれるのは嬉しいが、一度くらいは髪に結んでくれ。きっと、似合う」
 タンスの肥やしにしそうなのを見透かされている。ロンドンにいる間、先生には結んだところを見せないとなあ、と、考えながら頷くと、先生はまた、わたしの背を抱くようにして歩き始めた。ああ、さっきまでなんともなかったのに、無駄にドキドキしてしまう。
「さて、食事にしようか」
「食事!」
 うかつだった。忘れていた。
「なんだ、大声出して」
「食事って……どこで? ドレスコードは!?」
 前のめりに食いかかるわたしに、何故か先生はバツの悪そうな顔をする。
「……期待しているなら悪いが、大した場所には連れて行けない。せいぜいそのあたりのパブだな」
 くいっと親指が指した方向に何があるわけでもない。けれど、その言葉を聞いた途端、安堵と好奇心でいっぱいになってしまった。
「パブ! 行ったことない! 行きたい!」
「そ、そうか……立ち飲みになるかもしれんが、」
「全然いい!」
 テンションが上がってしまった私を先生は引き気味に見下ろしている。まるで都会に出てきた田舎者を見ているような目、ということにしておこう。グレゴリー・ペックだなんて言ったらまた、「ガラじゃない」なんて言い出しそうだし、わたしだってお姫様なんてガラじゃない。
 師匠と弟子、家主と居候。それでいい。
 色気も情緒もなくても、これはこれで、悪くない関係だと思うから。



ロード・エルメロイ二世、アンケートはがきに挑む


 午後、ダイニング、テーブルの上にはティーセット。
 あたたかな日の射すサンルームでもあれば優雅なティータイムだっただろうが、そもそもテーブルを挟んで向かい合う二人の顔つきからして優雅さの欠片もない。別段にらみ合っているわけでもないし、一方が一方を叱責しているわけでもない。というかむしろ、この状況を適切に表す言葉があるとは思えない。
 一方は神妙な顔をして俯き気味に口を引き結び、もう一方は今し方の申し出になんと答えたものか閉口している。口は開いたままだが。
 その申し出が何かと言うと、

「頼む立香、私に日本語を教えてくれ」

 一体どういう風の吹き回しか。母語である英語以外はさっぱりできないエルメロイ二世が日本語を学びたいと言い出す。
 なんでまた突然? 日本人も日本も嫌いじゃなかったっけ? と、立香は首をひねりながら尋ね返す。
「なんで?」
 どのみち目的が何かを見定めるのは最重要課題だ。簡単な読み書きができるようになりたいのか、最終的に俳句でも詠もうと思っているのか。後者だったとしたら、立香の手には負えない。まあ、ありえないことだろうけど。
 立香の問いに対し、エルメロイ二世はしばし黙っていた。言いにくいことなのだろうか。まさか、AKIBAでMOEを追求したいとか言い出すんだろうか……などといぶかしんでいる立香の目の前に一枚の紙が差し出される。
「なにこれ……はがき?」
 見慣れたサイズの表面には、日本語で東京の住所が書かれている。一瞬、知人に手紙でも出したいのかと思ったが視線が下方に移動するにつれてその予想は消えた。
 宛名面の下半分は、差出人の住所氏名年齢性別職業欄で、一番下の方に個人情報保護についての記載がなされている。
「……?」
 なんとなく予想はついていたが、ひっくり返した裏面を見てようやく理解した。

『この度は弊社商品をお買い上げいただきありがとうございました。今後の商品企画の参考とさせていただきますので、是非、ご意見ご感想をお聞かせください』

「アンケートはがき……?」
 顔を上げると、眉間に皺を寄せたいい歳の男が頷いている。
「何のアンケートなの?」
「大戦略シリーズだ」
「……へー」
 それが、ロード・エルメロイ二世がカルデアでも数百時間では済まない程度の時間を費やしたお気に入りのゲームタイトルであることは立香も嫌というほど理解している。それがロンドンの住まいにあるのは当然と言えば当然だろう。
 ちなみにこのはがき、バッチリ日本語である。「誠に恐れ入りますが切手をお貼りください」と書かれているが指定された料金ではイギリスからは届かないだろう。
「なんで日本語のはがき持ってるの? 英語版のソフトとかないの?」
「あるにはあるが……日本でしか売られてない初回限定版も欲しくて」
「…………へー」
 初回限定版「が」じゃなくて「も」かよ……と言うと話がこじれそうなので、立香は黙っていることにした。中小ショップ限定Tシャツの通販は無理でもアマ○ンジャパンは初回版をイギリスに送ってくれたらしい。
「ほんとに好きなんですねぇ……」
 はがきをよく見たら確かに、メーカーが集計用に使うのか、隅の方に「アドミラブル大戦略P・初限」と書かれている。Pはなんだろう。ポータブル? と、予想してみるが今はそれはどうでもいい。
「でも先生、これウェブのアドレスもQRコードも載ってるし、英語で送ってもいいと思うよ?」
 欧州版だかなんだかも出せる程度に大きなメーカーならば、英語で書かれたアンケートはがきもウェブの書き込みも難なく処理できるだろう。
 提案してみてもエルメロイ二世は頑なだった。眉間の皺と同じくらいに。
「駄目だ。イギリス人の私が慣れない日本語で懸命にはがきを書くのが重要なんだ」
「……は?」
 立香は こんらんしている!
 何その設定……設定っていうか事実だけど……。と、いまいちその真意を測りかねていると、エルメロイ二世の指が、はがきのある部分を指し示した。
「一応私も辞書を引きながら読んではみたが不安だ。まずは、そこに書かれている内容を英訳してもらえないだろうか」
 まず、ということはとりあえず日本語を指南するのは確定事項らしい。ええい仕方あるまい、立場の弱い居候だしこのくらいは……と、立香は身を乗り出してのぞき込む。
「わかりましたよ……えーと……
 なおアンケートにお答えいただいた方の中から抽選で毎月五名様にオリジナルグッズをプレゼント(当選者の発表は景品の発送をもってかえさせていただきます)」
 よくある文言だ。適当に意訳して伝えると、依頼主は妙に険しい顔で肘をつく。
「そうか、やはりか……」
「何がやはりなんですか、どっかの総司令みたいなポーズして」
 渋みは足りないが威圧感的には似ている。
「いや、私の読解も捨てたものではないなと思っただけだ。それより、書かれていることがその通りならなおのこと、はがきを出さなければならん」
「因果関係がぜんぜんわからないよ……」
「何? わからんのか?」
 またも「愚か者」と罵られそうな顔つきだった。そんな顔をされてもわからないものはわからないと言うと、エルメロイ二世は真面目くさった顔で溜息を吐く。完全に呆れているらしい。あまりにも理不尽すぎる論理構成に反論したかったが、立香はおとなしく言葉を飲み込み解説を待った。
 そのロード・エルメロイ二世曰く、

「わざわざイギリスから慣れない日本語ではがきを書いた顧客だぞ? 多少便宜を図るくらいはするものじゃないのか?」

「……」
 呆気にとられたというか、衝撃を受けたというか。
 立香はしばらく、開いた口が塞がらなかった。
 つまり何か、この御仁、イギリスから英国人がアンケートを日本語で出せばメーカー側がその労力に報いてくれると、具体的に言うと抽選でもらえるだろうオリジナルグッズとやらが無条件でもらえたりするだろうと推測しているらしい。
(せ、せこー……)
 立香は思う。
仮にも社会的地位のある人間のやることではないと。
しかしどうしても欲しいのだろう。なりふり構わないほどに。人間、限定とか非売品とか弱いものだ。転売屋がのさばる昨今、まだ自力でどうにかしようとしている分マシかもしれない。……いや、どうだろう。そもそもやったところで上手くいくとも限らない。むしろ可能性は低い気がする。
「言いたいことはわかりました……けど、わたしは日本語ではがきを書くお手伝いはできても、必ず何かもらえるって保証はできませんからねっ」
「それは承知している」
 さすがにそこまで厚かましい考えはないのだろう。最終的に自分に火の粉が降りかからないならいいや、と、立香はこの頼みを引き受けることにした。
「それで? まずは何をすればいいんですか? 途中まで記入は済んでるみたいですけど」
 はがきを見てみると、上から順番に「よかった点」「不満点」「購入場所」等がチェックボックス式で並んでいる。ここはどうにか解読できたのか、おそらく適切と思しき回答が既になされていた。
「問題はここだ」
 眉間の皺を深くしてエルメロイ二世が示すのは、大きな〔〕でくくられた広い空白だった。その丈夫には、
『以下、ご意見ご感想をお聞かせください』
と、書かれている。
「自由入力欄ですか……」
 確かにゼロから文章を作るのは難しいに違いない。立香がうんうん頷いていると、
「そもそもそのご意見だとかご感想だとか、そのままの意味でとっていいのか? 何か含みのある言い回しに思えて仕方ない」
 そこんとこどうなんだ日本人代表、と、灰緑の目が訴えてくる。しかし立香は日本人代表になった覚えもないし、こんな文言、嫌というほど見ているので今更含みもなにもわかったものではない。
「えー? 言葉通りの意味じゃないんですか? 思ったこととか感じたこととか、素直に書けばいいと思いますけど」
「……」
 返事がない。どうせ考えているのはこんなところだろう。
「……批判的なこと書いて景品が遠のくと思うならそうしたらいいんじゃないですか」
 案の定眉がぴくりと動くが、予想外に、エルメロイ二世は便箋らしき紙をテーブルに広げ始める。
「いや、実は下書きはしていて……」
 四つ折りにされたものが、くるりと反転して立香の方を向く。
 その瞬間であった。立香の腹筋が、崩壊しかけたのは。
「んぐっ」
 無慈悲なものである。 どれだけ長い文章でも、それが母語であれば目に入ったとたんに意味を理解してしまう。エルメロイ二世の書いた、おそらく、多分、もしかすると、日本語らしき文章は支離滅裂で、いや、それ以前に、
(へ、下手ーー!!)
ひどい悪筆だった。
 そりゃ確かに、漢字ひらがなカタカナの入り乱れた文章は、アルファベット二十六字の文化圏の人間には難解だろう。それにしてもひどくないだろうか。授業中に寝こけてしまい、気付けばノートがこんな有様だった。あるいは、利き腕と逆の手で字を書いたらこうなった。そんな印象を受けさせる。
 思わず笑ってしまいそうになって、立香は必死で下唇を噛み締めた。
「……笑ってくれて構わんよ」
 しかし、ロード・エルメロイ二世はぐっと歯を食いしばって屈辱に耐えようとしている。いい歳なのに、それなりの地位にある人なのに、そして相手は、取るに足らない小娘風情だというのに。
 笑おうとした自分が恥ずかしくなった。きっとこういうところが、彼の本質なのだろう。挫折することは多くても、めげることだけはしない。
 似ている。なんて言うのはおこがましいけれど、立香は胸の中にあたたかい光が灯ったような、ささやかな歓びをかみしめた。
「――笑いませんよ」
 噴き出しかけておいてなんだが、努力しようとしている人を嗤うほど悪趣味ではない。
「むしろすごいですよ、内容はともかく、ここまで書いたのすごいと思うし、人に見せるのも勇気がいることだ、うん」
 なんだか上から目線になってしまったが、立香はエルメロイ二世を……多分、励ました。
「内容は?」
「……」
 そればかりはさすがにフォローしかねて、さっと目をそらしてしまう。
「気を遣わなくていい。忌憚ない意見を聞かせてくれ」
「ええ……じゃあ、ほんと正直に言いますけど……」
 けふん、と、小さく咳払いをした後、立香は眉を下げて微笑んだ。

「園児よりひでえや」

「おい……その言い回しはやめてくれないか……なにかこう、深層心理にこう、くるものがある……」
 トラウマ級の何かでも思い出したかのような渋面でエルメロイ二世は声を絞り出した。しかし立香は手心を加えることどしない。
「だって実際、なんていうかこう、全体的に組み立て方からして間違っているっていうのかな……一回翻訳したのをまた翻訳してちんちくりんな文章になった、みたいな変な感じするんだもん」
「そ、そんなにひどいのか……」
 わかってはいてもショックは隠せない。エルメロイ二世はがっくりと肩を落とした。
「まあ……たとえば小さい子が一生懸命書いた、とかだったら、わからないでもないですけど……」
 おそらく戦略シミュレーションゲームの初回版を買い求める未就学児童はそうそういない。いたらいたでメーカー側も興味津々になるかもしれないが、今はそんな非現実的なことを語らっているときではない。
「落ち込まない落ち込まない! ここにネイティブの立香ちゃんがいるんですから!」
 百人力! と、力強く手のひらを握りしめて笑う様は、頼もしいというよりは和んでしまう。エルメロイ二世は、肩の力が抜けたような気分だった。ほとほと、この少女は人を脱力させる。
「ちょっと、なんですその顔」
 思わず緩んでしまった顔を見咎められて、エルメロイ二世は首を横に振った。
「いや、よろしく頼む、教師殿」
 多分、ふざけてやっているのだろう。先生なんて呼びながら、軽く頭まで下げている。
「んふっ……う、うむ、苦しゅうない」
 それが存外に嬉しくて、立香は照れと笑みを隠すのにずいぶん苦労した。
 日が暮れていく。
 テーブルの上は散らかっていく。
 ああだこうだと話し合う二人の間で、はがきはまだ真っ白なままだった。



占有離脱物横領事件


――さて。
 人間、生きている以上は生活に関わる一切の些事をこなさなければならない。炊事に洗濯あるいは掃除。それらはある種の人間にとっては大いなる面倒ごとであり、避けたくても避け得ない障害とも言える。
 そんな大げさな言い方をするものではないだろうが、いわゆる「家事」というのはやはり大半の人間にとって、煩わしくも逃れ得ない仕事に違いない。
 そして正直に言うと、私はその「家事」というものが苦手だ。できるなら金を払ってでも他人にやってもらいたいと思っているし、実際食事の支度と掃除は家政婦に任せている。おかげで快適、毎日なんの憂いもなく過ごしている――と言いたいところだが、正直に言うと他人を自宅に上げるということに心理的な抵抗はあるし、それはいつまでも拭い去れない。かといって家政婦に辞められては私の生活は破綻する。それを避けるためには――まったく、考えるまでもないことなのだが、ただ私がその心理的抵抗を受忍すればいいだけのことだ。
 しかしそんな私でも一つだけ、自力でこなしている家事がある。
 洗濯だ。これだけは他人に任せられなかった。スーツのクリーニングや靴の補修なら任せられても、さすがに他人に下着を洗ってもらうのは耐えられなかった。たとえ最終的に自動乾燥で仕上がった清潔なものであっても、他人に下着を触られるのは私にとっては羞恥を伴う苦痛でしかなかった。
 幸い最新型の洗濯機は洗剤を入れてボタンを押すだけで乾燥した状態に仕上げてくれるものだから、私のような人間でも失敗することなどなかった。
 立香がここに滞在するまでは。

「まとめて洗ったほうが手っ取り早いのに……」
 洗濯のルールを聞かされた彼女はそう言う。確かにそれは合理的で理性的な判断だ。私が「下着を触られたくない」と言い張っているのは単なる感情論で、非合理的かつ非効率的なものでしかない。だがそれでも譲れないものがある。自分が非常にくだらないことを例賭して上げているのは承知した上で言うが、その譲れないものを譲ってしまったら人は人でなくなり、ただの機械的な何かに成り下がってしまうのではないだろうか。
「手っ取り早くてもだめだ。私は君に洗濯物を任せようとは考えていない」
 さすがに十代の少女に私のような男の下着を触らせるのはいかがなものだろう。私は絶対に譲れないと何度も繰り返し、立香はようやく渋々とそれを受け入れた。
「先生の家だから従うけど……」
 こんなことで彼女がごねるわけもないとはわかっていても、私は自分の要望を撥ね除けられなかったことに安堵していた。――主に、理由を開示しなかったにもかかわらず、という点において。
 そうして我が家の洗濯機は、二人の洗濯物を交互に洗うようになった。きっちりスケジュールを組んでいるわけではないが、適宜示し合わせて別々に洗っている。仕上がった服は回収してクローゼットに放り込むだけ。(シャツはさすがに、アイロンをかけてもらえるようまとめてはいるが。)そんないい加減だからか、はたまたお互い油断していたせいか――事件は起ってしまった。

「ん……?」
 その日は私が洗濯機を使った。特にトラブルもなく、いつも通りに仕上がった衣類をバスケットに放り込んで自室に戻る。ワイシャツだけを取り出して、残りの下着や靴下は特にたたまずクローゼットの一番手前にバスケットのまま置いておく。そんないつも通りの、ルーティンワークをこなした私の目は、何か異質なものを捉えていた。
 靴下と下着の山の中に、パステルカラーをした何かがある。
「……?」
 ちなみに、私の服はコートから靴下まで、黒ないし暗い色が多い。そもそも(偏見のつもりはないし個人の趣味にケチをつけるわけではないが)、一般的に成人男性でパステルカラーのものを身に付ける者は多くはないだろう。自分以外の誰かの持ち物が紛れ込んだということは簡単に推測できた。いや、「誰かの」も何も、立香のものだというのは明らかだ。なめらかな光沢に、さてはハンカチでも紛れ込んだかと思って引っ張ってみたところ、
「――」
 それは予想通り、レースで縁取られた薄くやわらかな布地でできている。
 淡い水色は女性らしさを感じさせるし、それ以前にこのサイズ感が……サイズ――いやハンカチじゃないなこれ。
 ショーツだ。
「――っ!?」
 絶叫しかけた私は、動揺する一方で冷静に状況を理解しようと努めた。いや推測するまでもない。おそらく私が洗濯する前に洗濯機を使った立香が、仕上がったこれを中に残したままだったのだろう。そして私は中にこれが潜んでいることにも気付かず、自分の汚れ物を突っこんで一緒に洗い、自室まで持ってきてしまった。
 うん、完璧な推理だ。誰でも思いつく。
(あのうっかり者!)
 自分がよく確認しなかったことは棚に上げて、とりあえず立香の軽挙妄動を内心で詰った。しかし起こってしまったことは悔やんでも仕方がない。問題はこれをどうやって立香に返すか、だ。
 直接渡す? いや、それは避けたい。彼女だって私に下着を見られ、あまつさえ触られたなんて知りたくもないのでは? 「先生に触られたパンツとかもういらない、穿きたくない」とか言われたら私だって悲しいし。この際気付かなかったことにして、何食わぬ顔でこれを洗濯機の中に戻しておくのはどうだろう? そうすれば次に洗濯機を使う立香もいずれ気付くに違いない。
 よし、それだ。そうしよう。
 私は一瞬ためらったものの、下着をそっとたたんでスラックスのポケットに収めた。いくら小さな薄布でも、手のひらに収めたまま洗濯機のある場所へ行くのは危険と判断したためだ。
 が、結論から言うとそれは大失敗でしかなかった。
「先生? いる?」
(!!)
 自室のドアをノックする音。やや強張った立香の声。状況が状況なので飛び上がるほど驚く私。スラックスの奥に突っこまれる水色の下着。
「な、なんだ? どうした?」
 間違いに気付いたのは返事をした後だった。ドアが開かれれば立香の顔がこちらを覗き込むし、私はポケットの中身をもう外に出せない。
「あの……じつは、わたし洗濯機の中にパ……ええと、服を残しちゃってたみたいで……先生の洗濯物の中に紛れ込んでないかな、って思って……」
 なんということだ。立香はすでに、下着が行方不明だということに気付いてしまっている。
「……洗濯機の中は見たのか?」
「見たけど、やっぱりなかったの」
 遅かった。希望は潰えた。私の目論見はもう実現できない。
「先生、さっき洗濯してたでしょ? その中にないかな……」
 私のことなど知る由もなく、立香は純粋無垢な疑問を浮かべる。知らぬフリをするのは気が咎めないでもないが、悲しいかな、私にはとぼけることしかできなかった。
「さ、さぁ……見てもいないが……それなら、探してみようか?」
 それだ! 探すふりをしてポケットの中身を紛れ込ませれば解決!
 ひらめきに快哉を上げたくなった私だったが、
「あ、い、いいよ! 自分で探すから!」
 間髪入れず立香に拒否される。
「そ、うか……」
 まあそうだろう。探し物が「パンツ」であることすら言い淀んだのだから、私がそれを見つけ出すのは避けたいに違いない。
 立香は私の傍らをすり抜け、まだクローゼットの前に出したままだったカゴの中身を覗き込む。しゃがみ込んでそこに遠慮なく手を突っこんでいくかと思いきや、彼女は少し、ためらうような素振りを見せた。
「……あ、あんまり先生の下着とか、見ないようにするから」
「――」
 やや恥ずかしそうに目を伏せて、立香は丁寧に捜索をはじめた。
 当然のことなのだが、立香が自分で探すと言った以上私は何もできず、彼女が私の洗濯物をまさぐるのを許容しなければならない。あれほど自分の下着に触れられることを拒んでいたにもかかわらずこの結果。洗濯を分けていたこれまでの尽力や気苦労が馬鹿馬鹿しく思えてくる。かといって、やはり私が探そうかとも言えない。立香が私の下着に触れるより、私が立香の下着を探そうとするほうが外形的には大問題だ。
(……もう触ってるんだがな……)
 カゴの中身をひっくり返す立香を見ていると、自分の置かれた状況にひきつった笑みさえ浮かんでくる。彼女は私のポケットの中に目的物があるなどと思いもしないだろう。互いの洗濯物に触れてしまった今となってはどうしてさっさと渡してしまわなかったのかと悔やまれるが、こうなっては気軽に手渡すということもできなくなった。渡すに渡せなくなって、という言い訳を述べたとしても、ポケットから下着を取り出す様はどう考えても――変態的行為でしかない。人の下着でよからぬことでもしようと企んでいたのではと、そういう嫌疑をかけられても仕方ない。
 やはりどうにもならない。私は一体、どうしたらいいのだろう?
「やっぱりない……」
 立香は気落ちした声だった。そんな声を聞くのは純粋に心苦しい。
 私は焦っていた。どうにかしてこの下着を彼女の手元に戻さねばならない。策はない。ああまだ軍師殿が私に力を貸していてくれたならどんなに……いや、こんな下らないことに力など貸してはくれないだろうし私だって借りたくはない。
 そうして凡人なりに思いついたものは、策とは到底呼べないものだった。
「……どこかそのあたりに落ちてるんじゃないか?」
 立香を一旦部屋から追い出す。そしてまずはリビングのあたりまで向かわせて、適当なタイミングで下着を廊下にリリース! これだ!
「落ちてたら先生、気付くでしょ……」
 しかしやはりというか、立香は冷静だった。彼女の言うとおり、異質なものが落ちていたら私だってさすがに気付く。
「そうだな……」
 となると適当なところに落としておくという作戦もまた却下だ。
「うーん、ほんとどこ行っちゃったんだろ……外に干したわけじゃないから飛んでいったはずもないし……家の中にはあるはずなんだけど……」
 腕を組んで考え込む立香は、ややあって私を上目遣いに見つめた。見つめるというか、半分くらいは睨んでいるようなものだった。
「な、なんだ?」
 まさか勘付かれたのだろうか。思わず身構えてしまい、そんなことをしたら嫌疑が深まるだろうにこの愚か者! と自分を詰ったものの、立香はふっと表情を落ち着かせて両腕を下ろした。
「……ううん、なんでもない。もう一回自分の部屋探してくる」
 お騒がせしました。と、会釈のように首を傾げて立香は出て行った。
「……はぁ」
 とりあえず、生き延びた。しかし状況はまったく好転していない。立香はほどなくして戻ってくる可能性が高いし、私は一刻も早くポケットの中身をどうにかしなければならない。
「今のうちに洗濯機の中に放り込んでくるか……」
 さっき「探したけどなかった」と言ってはいたが、この際四の五の言っている余裕はない。そうと決めたら善は急げだ。私は自室から出てとりあえずリビングの方へ向かったのだが、
「先生!」
 廊下の向こうから立香が駆けてくる、のが聞こえる。やはり気付かれたか!? 接触まであと五秒もない。言い訳を、いや、弁解を――ええい、もうどうにでもなれ!
「先生!」
「ど、どうした」
 万事休す。覚悟は決めた。糾弾されるだろう、罵られるだろうと表情を強張らせた私が見たのは――予想に反して笑顔を浮かべる立香の姿だった。
「あった! ちゃんと探したらあったの! シャツの間に埋もれてたみたい」
 あははーもう、わたしったらせっかち~。と、立香は照れくさそうに笑う。その困ったような笑顔に、私はどんな顔をしていたのだろうか。
「そうか、それは、よかったな、はは」
 笑い声を口にした者の、ちゃんと笑えている自信がない。
 だって立香の下着は私のポケットの中にある。もしかして彼女がなくしたのは一枚だけではなかったのか?
 混乱する私を尻目に、立香は脱力したように両肩を落とす。
「なんか騒いじゃったから喉渇いたね。お茶でも淹れようか?」
「ん、ああ……そうだな」
「じゃあ先に行ってるから」
 立香は問題がすべて解決したと思っているのだろう。かるい足取りでキッチンへ向かう。私はその後を追うでもなく、スラックスのポケットに片手を突っこんだ。
「……いや、いやいや」
 確かに、ある。淡い光沢を放つ生地が、繊細に編まれたレースの飾りが、ポケットの中でしわくちゃになっている。立香は見つかったと喜んでいたが、やはりこれも彼女のなくしものなのでは? そうでなければ私は夢でも見ていたのだろうか?
「…………」
 案外、そうかもしれない。まじまじと見たわけでもないし、これは実は、下着ではない何か――まったく例えが思いつかないが、何かもっと健全なものかもしれない。
 確かめてみよう。
 私はそっと、ポケットの中身を引っ張り出す。しゅるしゅると滑らかな衣擦れの音をたてながら、それは再び私の手に――
「先生何してるの?」
「のぉうッ!?」
 急に廊下の曲がり角から立香が顔を覗かせるものだから、私は生涯で上げたことのないような絶叫とともにポケット及びその中身を両手で押さえ込む。そんな挙動不審をすれば何が起こるかなど、考えるまでもない。
「……持ってるの?」
 立香の目は疑いに染まっていた。
「な、何を? 何のことだ?」
 どう考えても私は怪しい。自分が一番理解している。推理小説なんかで、どう見ても追い詰められた犯人が見苦しく言い逃れようとする理由がわかった気がした。可能性が低くても、逃れられるなら一縷の望みにかけたい!
「やっぱり持ってるでしょ」
 しかし立香はじりじりと距離を詰めてくる。
「先生、ポケットの中に、何入れてるの?」
 じっとりと睨むような目は、完全に私を疑っている。疑っているというか、もうほぼ確信している。この下着泥棒! と言いたい気配をひしひしと感じる。
 誤解だ。結果的に下着泥棒のような状況になってしまったがこれはやむにやまれぬ事情に流されて、いや私が保身に走ったがために真相を告げられずあれよあれよという間に最悪の状況にいたってしまっただけで、そもそも根本的には私は、君の下着を奪おうなんて思ってもいない! これはただの、不幸な事故なのだ!
「ねえ、何隠してるの? 先生?」
「な、何って、別に……」
 ああ、空間転移のような魔術が使えたならどんなにいいだろうか。私の頭の中は、むなしい現実逃避と動揺と、それから普段よりも数段精度の落ちた思考が渦巻いていた。
「というかなんだ、なんでそう疑いに満ちた目を向けるんだ、私が何をしたって言うんだ」
 その思考の結果が逆ギレなのだから目も当てられない。まさに推理小説の犯人。「証拠や動機はあるのか!」というやつだ。
「何をしたかは先生が一番わかってるでしょ」
 立香の冷静さがうらめしい。いつの間にこんなに堂々と人を追い詰めるようになったのか。さてはさっき「見つかった」と言ったのもカマをかけただけだな? 先生は君をそんな子に育てた覚えはないぞ。嘆かわしい。主に疑われている我が身が嘆かわしい。
 こめかみの辺りに、じんわりと汗が滲んできた。
「そうは言うが私には何の心当たりも……」
 もう、とぼけることしかできなかった。ハンカチで汗を拭きつつ、私は立香が根負けしてくれることだけを願った。しかしそんなものはただの願望である。立香は私の様子に素っ頓狂な声を上げ――
「ハンカチ?」
「え?」
 つられて私も気の抜けたような声を返してしまった。
「なんだ――ハンカチだったの」
 立香の目は、私の手元に釘付けになっている。
「は……」
 ハンカチ。そう、ハンカチだ。紺と灰色のタータンチェックのハンカチは、いつものように今朝ポケットに突っこんだものだ。無意識の習慣のせいで、私はハンカチを持っていることすら忘れていた。
 立香は再び苦笑を浮かべる。半分は私の行動について、もう半分は、自分の早とちりについて、らしい。
「なぁんだもぉ~先生ったらあからさまに挙動不審だったからびっくりしちゃったじゃん~」
 そして力任せに私を、私の腕のあたりをバシバシ叩く。どうやら嫌疑は再び晴れたらしい。
「ハンカチならハンカチって言ってよ~何隠してるのかって疑っちゃった~」
 正直拍子抜けしたのだが、敢えて蒸し返すこともあるまい……私は立香の陽気な調子に合わせてしまうことにした。
「そ、そうとも、ハンカチだ、うん、ハンカチ。ははは、私が君の下着なんて隠し持っているわけないだろう」
「――」
 ははは、と、今度こそ本心から笑えたのだが――立香の表情は晴れない。
 それどころか、強張ったものに逆戻りしていた。

 先ほど推理小説の犯人を例に挙げたが、あれもまた愚かなものだと思う。聞かれてもいないことを答え、しなくてもいいことをして墓穴を掘る。もちろん推理小説のそれは舞台装置的に求められてのことだろう。しかし私は、その愚かさを笑えない。なぜなら――
「先生、私、下着なんて一言も言ってないのにどうして知ってるの?」
 なぜなら私もまた、墓穴を掘ってしまった愚者なのだから――。