常夏の海の底

 私は眠っている。眠っている人間が「眠っている」と宣言するのは紛れもなく矛盾しているのだが、とにかく私は、眠っている。
 硬いベッドの骨組みを、クッションを挟んで背もたれにして、床に座り込んで眠っている。部屋の中は暗い。正面に据えられたモニターの光源だけを頼りに、全てがアクアリウムの底のようだった。
 私は眠っている。全ての気配を感知しながら、眠るふりをしている。
「――……、――」
 歌声――鼻歌が聞こえた。立香が歌っている。子守歌のようになめらかな旋律が青い暗闇に溶けていく。聞き覚えのある歌は、確か元はドイツ語だった。詩を書いた人間はこのカルデアに召喚されている。いつ、誰から教わったのだろう。彼の目の前で歌ったならそれはひどいしかめ面をされるだろうに。
 気配はあちらこちらを彷徨っていた。
 歌いながら立香は、何をしているのだろうか。部屋の中を歩き回っているのは、何かを探しているのだろうか。それとも、何かを隠しているのか。
 私が寝入ってしまったときはこの部屋には私一人だった。立香をはじめ数十人が、パーティー会場に赴いているはずだった。何のパーティーだかは聞いてもいない。それくらい、私はそれに興味がなかった。むしろ参加しなければ一日一人で過ごせるのだと気がつくと、参加する気など起きるわけもなかった。
 漫然と一日を過ごし、気がつけば夜、だろうか。半端に寝入ってしまった不快感と、食堂が開店休業だったための空腹感でそう推測する。当たっていても当たらなくても同じだった。私はただ、立香に気取られぬように眠ったふりをするだけ。
 歌は続く。言葉と意味を失ったメロディーだけのなまぬるさが紡がれる。なぜこの歌を選んだのだろう。狂おしいまでの愛を、単純明快な一言で何度も繰り返す。そこだけは立香も知っていたのだろう。三度繰り返し、しかし直後からまた、鼻歌に戻る。「永遠に」、それを意味する四語は、歌われなかった。立香はそのイディオムを知らなかったのだろうか。ただ、それだけだろう。さしたる意味はないに違いない。
 ふいに瞼の裏が暗くなった。モニターと私の間に立香が入りこんだに違いない。
Hush baby my dollyいいこ、いいこ
 たどたどしい、今度は英語だった。マザーグースの一説を口ずさみながら、指先が伸ばされる――そんな気配がした。
「……カスタードもタルトもお断りだ」
 ゆっくり、目を開けながら笑う。しゃがみ込んでこちらを覗き込んでいる立香の、不意を突かれたような顔が青い逆光になじんでいく。
「いつから起きてたの?」
「――鼻歌のあたりから」
「……起きてるなら言ってください」
 呆れながら立香は私の隣に腰を下ろした。見覚えのない服だった。胸元に大きなリボン、多分、白。肩のはだけたワンピースドレスは多分オレンジ。曖昧なのは光源が青いせいだ。肌の色が寒々しいほど冷たく見えるのも。
「抜け出してきたのか」
「うん。――んー? 違うかな、もうお開き。残ってるのはお酒飲めるメンバーだし」
 納得できる。大方、会場はもう騒々しい有様になっているに違いない。大方、保護者然した何人かが、もう遅いからとでも言って彼女を追い返したのだろう。
 事情がわかったような顔で頷き、欠伸をかみ殺す。立香は髪をかき上げる私を見上げている。どうしたと聞くと、傍らに置いていた何かを抱えて頼りなく微笑んだ。
「これ、残り物で申し訳ないけど……」
 布に包まれた立方体に近いもの。風呂敷に包まれた重箱、というやつだろう。ずいぶんと小ぶりな大きさだが。では入っているのは食べ物で、「残り物」と言ったところから察するに、パーティーで供されたものか。
 じっと見ていると、立香の手で結び目が解かれる。美しい蒔絵の施された三段重の中身は、容器とは正反対の中身だった。
 混ざらないようにきちんと仕分けされて入れられた生ハムやドライフルーツと、それらをのせるためのクラッカー。食べやすいサイズにカットされ、ドレッシングと和えらえたサラダ。手づかみで食べられそうなナゲットやチップス。
「それから、これ」
 いたずらっぽい笑みで背後から取り出したのは、栓の空いていないスパークリングワインのボトルだった。そしてもう片方の手に、透明なグラス――と言っても、シャンパングラスなどではない。朝晩に水を飲むために部屋に置いている、なんのことはない安物だった。
「一日中引きこもってゲームしてたんでしょ? おなか減ってると思って」
 お見通しだと言わんばかりの顔からグラスを受け取り、その推測は当たりだと笑う。
「もう外に出て行く気もなかったから助かる。明日の朝まで飲まず食わずかと思っていた」
「よく平気だね……」
 立香からワインボトルを受け取り、口を押さえながら瓶を回し開ける。存外素直な栓は暴れることもなく、静かに炭酸ガスを吐き出しながら口を開けた。立香は、派手な演出が見られなかったのが残念なのだろう、少しだけ落胆しているようだった。
「どうしたんだ、これは」
 ちゃちなグラスを満たしながら聞くと、立香は舌を出しながら、
「パーティーの雰囲気を持ってきたくて、黙ってこっそりくすねてきた」
 悪びれもせずに言う。
「大丈夫だよ、あれだけお酒あったし、多分ばれてない」
「そうだといいな。私まで監督不行き届きで叱られたくはない」
「……わたしにお酒は飲ませるのに?」
 二つ目のグラスを半分ほど満たすと、立香がためらいがちに中身と私を交互に見上げる。
「酒じゃない。ただのスパークリング……味の付いた水だ」
「ええ……?」
 酒は酒だがジュースと言ってもいいような度数なのだ、グラス半分ではよっぽどでもない限り酔っ払いもしないだろう。それに、
「お前はアルコール分解が早いかもしれないしな、耐毒スキル持ち」
 からかい混じりに言うと、不満そうな顔に睨まれる。
「(仮)です。……お酒関係ないと思うなあ……?」
「まあそう言うな。君を前にして一人で飲むのも味気ない」
「……もー」
 不承不承ではあったが、渡されたグラスに軽く私のグラスをぶつけられて、立香は一口だけそれを口に含んだ。褒められないことをしている罪悪感の味は、さぞ甘いことだろう。
「美味いか?」
「……おいしい」
 認めるのが悔しそうな顔で立香の頬が緩んでいった。甘露を口に含んだまま、私も笑う。
「お酒ってもっと苦いと思ってた」
 言いながら、立香はグラスの中身をさらに口にする。そんなに美味かったのだろうか。
「ゆっくり飲みなさい、酔いが回る」
「ん」
 グラスから口を離すとずいぶん惜しそうな表情になっている。そんなに飲みたいなら二杯目をと言ってみると、根っこの部分で真面目なせいか、「いらない」と突っぱねられた。これまたずいぶん、悔しそうな顔だった。
「さて、空きっ腹で飲んでばかりというのもよくはないな。いただこう」
 生ハムをつまんで口に入れる。ほどよい塩辛さで目が覚めるようだった。指先を舐めながら、次の獲物を部食する。これが会場だったら行儀よくもするが目の前にいるのは気の置けない一人だけだ、何を気にする必要もない。
「ハムばっか食べて」
 せっかくクラッカーを入れてきたのにと、立香は呆れていた。彼女の手のグラスはほとんど空になっている。ボトルの口を向けてはみたが、やはり断られた。
「先生、ときどきわがままになるね」
「わがまま?」
 硬い音がした。立香がグラスを床に置いた音だった。
 そのまま膝を抱えてうずくまった、と、思うと、半分だけ上げた顔がこちらをじっとり見つめている。長めの前髪の隙間から見える目が、青い蛍のようだった。
「偏食だし、パーティーには来ないし」
「……それだけ?」
 偏食ならもっとひどいのがいくらでもいるし、パーティーに参加しなかったのだって私だけではない。もしこれをわがままと言うなら、立香が今拗ねているのも相当に子供っぽいと言えるだろう。もしかして、たったあれだけで酔ったのだろうか。
 参ったな、と、グラスの中身を呷ると、立香はいじけてふて腐れたような声音で俯いた。
「……それだけかもしれないけど、一緒に行きたかった」
 一瞬、全ての音が消えた。消えたように思えた。
「せっかくおしゃれしたのに、一番見て欲しいひとがいないんだもの」
 まったく、男というのは単純だと思う。機嫌を損ねた立香に面倒くささすら感じていたのに、こうも愛らしくいじらしいことを言われて悪い気がしないわけがない。
「立香、」
 緩む頬を隠さず、彼女に倣ってグラスを置く。こちらを向かせようと思って触れようと伸ばした手が止まった。
 むき出しの腕が膝からふくらはぎを抱いている。背中も腋もあらわな装いでするべきことではないと眉を顰めてしまう。しかし、
「似合ってる」
 きっと明るいところで見れば、鮮やかな色の眩しさに目を細めてしまうだろう。自分で選んだのだろうか。立香の魅力をよく引き出している。
「私に見せに来てくれてありがとう」
 正直に言うと、少しだけ、行けばよかったと後悔した。なにせ似合ってはいるが、人前では肩にケープなりマントなりを羽織らせてしまいたくなる。浜辺でもないのにむき出しの素肌は目に毒だ。
 結局躊躇った挙げ句、髪を一房、指ですくう。立香の機嫌は少しだけ持ち直したようだった。
「……ほんと? かわいい?」
 そういう尋ね方が十分愛らしい。
「もちろん。ああでも、欲を言うなら――」
 ようやく膝を抱えるのを止めた立香の頬を、私は片手で包もうとした。柔らかな弾力が手のひらを、滑らかな毛先が指先をくすぐる。
「髪は上げた方がいい」
 誘惑に負けるように指先は奥へと差し込まれ、鼻先を甘い香りが掠めていった。
 親指で立香の口元に触れる。驚きのためか僅かに開かれた唇に触れる。そのまま水に流れ水底に沈むように、引き寄せられて、いや、引き寄せて――
「――だめ」
 白い手袋が私の顔を遮り、口元を覆う。一日身に付けられて皺の寄った手袋の、毛羽立った不愉快さだけに落胆したわけではない。
「……おあずけです」
 そう言って――耳まで赤くしていながら、そう言って立香が私の手から逃げていく。深海と化した部屋の中でも、立香が頬を染めたかどうかなんてすぐにわかった。
「おなか減ってるならこれ全部食べて、重箱は明日の朝、取りに来ます」
 なんと逃げ足の速いことだろうか。それだけ言い残してそそくさと退室していく。溜息のような音を立ててドアが開いた一瞬、通路の白い光が筋になって差し込む。眩しさに手をかざした後、そこには誰もいなかった。
「……やれやれ」
 座り込んだまま手酌でグラスを満たしたが、一人の晩餐は味気ない。立香には悪いが、すべて平らげるのは難しいだろう。どうしたものかと思いながら、また生ハムだけを口に運んだ。
 ふと床を見れば、この部屋には不似合いなものが落ちている。
 花。
 私は立香が髪に飾っていたそれを拾い上げ、憂さを晴らすように残り香を吸い込んだ。