泥酔と酩酊

泥酔


「先生、酔いつぶれちゃった」
 と、こともなげに言いながら自分よりも上背のある先生を担いできたのがアレキサンダーで、彼の言うとおりお酒のにおいをむんむんとさせた先生がむにゃむにゃと口を動かしながら顔を真っ赤にして気持ち良さそうに……多分、寝ている。
「くさっ! お酒くさっ!! 酔いつぶれちゃった、じゃないよ! ていうかなんでわたしのところに連れてくるの!?」
 鼻をつまんで抗議してもアレキサンダーは動じない。
「だって部屋に戻しても一人じゃ心配だし、マスターならいいでしょ?」
「よ、」
 くない。
 言いたかった言葉を遮るように先生をベッドに(半ば放り投げるように)寝かせると、アレキサンダーはすたこらと部屋を出ていってしまった。
「ちょっと! ちょっとなんでこれ、ちょっとー!?」
 無情に閉まった扉の向こうを追いかけようとしてもすでに背中すら見えない。なんという俊足、さすがライダー……まさか愛馬を駆ったとは思いたくないがともかく、なんでこんなことに……そもそも先生を潰したのは誰だ。一人で飲む派と言っていたのになんで今日はこうなった。
 考えてもわかることではないのであきらめて彼を正気に戻そうとする。上方向には十分図体のでかい男が寝そべっているとベッドもずいぶん窮屈そうだ。よく見たら靴、履きっぱなし。
「人の寝床を……!」
 腹立ちまぎれに靴を脱がせては床の上に放り投げ、もとい投げ捨てた。
「もー……起きてください。先生いい歳して女の子の部屋で酔っぱらってるなんて倫理問題ですよ、例えFateに登場する人物は全員十八歳以上であっても! 淫行罪! 青少年健全育成条例違反! 未遂だけど!」
 揺さぶってみても、んが、だか、ふが、だか、いびきのような反応しかない。
「起きてくださいってば。これじゃわたしが眠れません! もー!今から寝ようと思ってたのに! ……しょうがない。よろしい、ならば実力行使せんそうだ。三蔵ちゃんもキャスターには物理で行けって言ってたし」
 うろ覚えの一言法話に背を押されたことだしやはり枕で殴ってやろうかと二つあるうちの一つに手を伸ばすと、ようやく酔っぱらいが目をさました。
「……うるさい」
 人の寝床奪っといて目をさまして真っ先に言うのがそれ!?
 ぶちギレそうなわたしの前で先生はゆっくり身を起こしあぐらをかいて顔を上げた。目は半開きで今にも寝落ちしそうで、ある意味新鮮な表情ではあるけど観察している場合じゃない。
「すいませんねうるさくて! さー起きたなら部屋に戻って寝てください!」
「……なにをカリカリしてるんだ、きみは」
 ぼんやりした目でんなこと言われりゃさしものわたしも顎が外れそうになる。
「お、あ、あなたが言いますか!?」
 ネクタイを掴んで頭がくがく揺さぶったろかと息巻くわたしを、見たこともないような満面の笑みが見つめた。えっ何気持ち悪っ。
「……よくわからんがきみは、わらっているほうがかわいいぞ」

ザ・ワールド。
そんな単語が聞こえた(気がした)。

「……落ち着こう。今何かおかしなことが聞こえたけど何かしら。これがマハトマかしら? わたしもキャトルミューティレーションされてるのかしら。うふふそんなわけないわよね、素数を数えれば落ち着くかしら? よし……1、3、5、7、11、13、17、19」
「2がぬけている」
「なんでそこだけ冷静なの!!」
 チクショウ!
 と、ベッドマットを殴り付けるわたしを再び笑う酔っ払い。
「はは、そうやって顔を赤くしているのもまたいい」
「よくない! 顔だって赤くない!! っていうか早く正気に戻って!!」
「失礼な。私は正気だし冷静だし落ち着いている。やれといわれればここで宝具の展開だってやれるが」
 怪奇!! カルデアに突如出現した石の迷宮!!
「そんなムー案件はやめて!!」
 酔っぱらいはやりかねないし宝具でカルデアが損壊なんてことになったら素面に戻った先生のショックはいかばかりか。あれわたし優しくない? 酔っぱらいの心配するなんて超優しくない?
「もういい加減バカなこと言ってないで部屋に戻って水でも飲んで早く寝てください!」
 ハウスハウス。と手を振ると大型犬のように鼻の頭に皺が寄った。
「バカなこととはなにかね。私がバカなことなど言うものか」
 食いつくのそこかよ。
「言いましたよ」
「何と?」
「……わ、わたしのこと、カワイイとか、なんとか」
 言わせんな恥ずかしい! 説明するのも罰ゲームかよってレベルで恥ずかしい!!
「それのどこがバカなことなんだ」
「ど、っ、え、はぁ!?」
 駄目だ、酔っぱらいと会話してるとこっちまで正気が損なわれる。もういっそわたしも正気を失ったほうがいいのでは? まさにイカレたコミュニケーションへようこそ、正気でいられるなんて運がいいどころか悪いのでは?? あーどうしてわたしには正気に戻す秘孔を突く技量がないんだろう。マルタ真拳に入門でもしておけばよかったのだろうか。とりあえずみぞおちでも突いてやろうか……。
「……あのう、お願いだからまともな大人の先生に戻ってください」
 酔っぱらいよ、理性を取り戻せ。
「君は十分愛らしく魅力的だ」
「わあ、無視」
「まあそれに無自覚なのがまたいい。かわいいのは外見ばかりではないぞ、君は少しうっかりしたり知識や経験に欠けるところもあるがそれもまた庇護欲をそそられるというものだ」
「……?」
 あれっこれ馬鹿なこと言ってるっていうか……馬鹿にされてない……?
「あっわかった~これけなされてるんですね!」
 まさに英国式皮肉というやつ! ようやく納得できた。その一方でさらに腹が立ってきた。
 何? つまり「お前は無知で無力でかわいそうで、しょうがないからこの私が世話をしてやろう」とかそういうこと?
「どーせわたしはろくな能力も無いできそこないのへなちょこマスターで、っ」
 言葉が途切れたのは、顎の動きを止められたからだ。
「人の厚意と言葉は素直に受け止めるべきだよ、レディ」
 具体的にどうなっているのかというと、わたしのではない大きな手がわたしの顎を捉えている。やだなーこわいなーって思ったらね、見てるんですよ、ロードが、死ぬほど真剣な目で、人の顎捕まえたまま、酒臭い息がかかりそうなほど近くで。
「かっ、」
 勘弁してくださいほんとわたしそういうの耐性ないんです。壁ドンとか蝉ドンとかされたら絶対笑う~とか思ってたけどちょっとこういう直接直に、あっ重複した、触れられて至近距離で見つめられて、いやこれ状況を述べるだけでも死にたくなるなよし殺せ。
「うん……黙っていれば君は本当に、」
 あー!! 駄目!! これ以上聞いたら死ぬ!!
「だああああ!! もう無理!! やめて!! もうわたしのライフはzeroよ!! 大体どこの世界に酔っぱらいの妄言を信じるアホがいるっていうんです! 冗談は負債額だけにしてください!!」
 言い捨てて渾身の力で腕を振り払い、部屋を逃げ出すつもりだったのに。
「ちょっと!! 放して下さいよ!? なんで!? なんで筋力Eのくせにこん……強化か!!」
 汚いさすがロード汚い。睨んでみても意に介さぬ風に笑い飛ばされる。
「ははは、今の私ならこの程度の強化は朝飯前だ。そして負債額も言葉も冗談などではない、悲しいな」
「いや自慢することじゃないでしょう……っていうかいい加減放して……」
「断る」
「わ、わがまま~……」
「我侭だって言いたくなるさ。もはや何一つ自分で決められん。せめて伴侶ぐらい自分の意思で決めたいと思ってもいいだろう?」
 いやいきなり何の話よ?
「はあ……? そんなことは好きにしたらいいんじゃないですかね……」
 わたしの知ったことじゃないし……。要領を得ない返事をしてしまうと、また笑われた。
「策謀と悪意のうずまく場所にいると、君のようなまっとうな感覚がたまらなくすばらしいものに思える。裏表もなく正直でまっすぐで、見ていて気持ちがいい」
「もしかしなくてもわたし、また馬鹿にされてるのか、な!?」
 いきなり両手で頬を包まれた。顎をすくわれているのにやっと慣れた矢先に。息つく暇もない。
「馬鹿にしていない。私は君のような女性が妻だったらな、と、言っているだけだ」
「――」
 もはや言葉どころか音声すら、開いた口から出てこない。間抜けにぽかんとしたわたしの頭の中でうずまく諸々の感情から強いて一つ拾い上げるとしたら絶望だろうか。
「な、なんでそこまで言って……寝るの……?」
 泣きそうな声で言っても、相手はすでに座ったままで夢の中なのだから。

    §

 眩しさに眉をひそめつつ起き上がると酒のにおいがあたりに満ちていた。ああ、酒盛りに巻き込まれたのだった、と思い出すが、それにしてはやけに静かだ。野太い声はなく、ただしくしくと女のすすり泣くような声がする。なんだこれは気持ち悪い。ラフカディオ・ハーンか。ベッドの上で周りを観察すると、とんでもないものが目に入った。
「……君はまだ酒が飲めない年齢ではなかったかな」
 少女の片手にはグラスが一つ。もう片方の手には酒瓶が一本。半分も減っていないようだが顔つきを見れば見事に酔っ払っているのがわかった。
「まったくどこから持ってきたんだ。食堂か?」
 聞くと、存外素直に頷いた。瓶は日本酒、となるとなんとなく出所もわかるというもの。それはそれとして目下大人の自分がせねばならんことは一つ。呆れながら両手から酒を奪うと、恨みがましい視線に責められる。
「酔っ払いに言われたくありません~」
「誰が酔っ払いだ」
「先生ですぅ~」
「人の顔をよく見てからものを言いたまえ、酔っ払いは自分のほう、」
「“君はかわいいな”」
「は?」
「先生が言ったんですぅ~」
「……何を馬鹿な」
 と、一笑に付してしまいたいのだが、はたと我に返って空恐ろしくなった。
 ここは私の部屋ではない。ここに来た記憶がない。何故彼女が酒を飲んでいるのか理由がわからない。わからないがどう見ても自棄酒を呷っている彼女に対し、何らかの原因が私にあるらしいことは、確かなようだった。
「ほーら覚えてない。酔っ払ってたもんねーしょうがないよねー」
「……なんだそのつっかかる言い方は」
 むっとして言い返すと、双眸に涙がにじむ。
「覚えてないでしょーけどねっ、お酒にまかせて、人を口説いて、じ、自分だけ、う……ふえええ」
「なっ、君、ちょ、落ち着きなさい」
 ついに泣き出してしまった。泣きながら私の手からグラスを奪い去り、一息に呷る。ああ、よくない飲み方だ。それを止める暇もなかったのだが。
「どうせ覚えてないんでしょ」
「な、何が」
「人のこと馬鹿にして、かわいいとか言って、プロポーズまでして」
「ぷっ――!?」
「ほらやっぱり覚えてない! ひどい! いい加減な気持ちで乙女の純情をもてあそんで! このスケコマシ!! カルデア無責任男!!」
 すけこまし、とはなんだ……?
 反論したいのは山々だが、完全に自分が悪いので何も言い返せなかった。
 まったく記憶に無い。なんと無様な酔い方をしたのかと頭を抱えたくなる。しかし求婚? 私が彼女に? なぜそういう話になったのか我ながらとんと理解に困る。困るのだが、
「その……申し訳ない……可能な範囲で責任は取る……取らせてくれ」
 ずいぶん前に似たような状況があった気がする。断るに断れず引き受けてしまった諸々の債務のことが思い出されて口の中が苦くなるような気がした。
「もういいです……どのみちあんなことされてわたしもう、お嫁になんていけない」
 マスターは震えながら言い切って、ぼろぼろと涙をこぼした。ぎょっとするどころの話ではない。
「おいちょっと待て聞き捨てならんぞ今のは。なんだ、何をしたんだ私は!?」
「聞きたいですか……? それを聞いてもあなたは正気を保っていられますか……? あなた……『覚悟してきてる人』……ですよね」
「ず、ずいぶんハードルを上げるじゃないか……」
 しかしお互い着衣は乱れていないようだし、そういうことはしていない、と、信じたい。唇でも奪ってしまっただろうか。それにしては反応が重くはないか? 結局なんだというのだ。
「実は……――」
 唇が開かれた、と思ったらまた閉じられる。やはり口で言えないようなことをしでかしてしまったというのか。
 私は待った。待ったが、一向に重い口は開かれない。それどころか、少女は口を抑えて必死な顔をしている。どうしたのかと俯き加減の顔を覗き込むと、血の気の引いた顔がかろうじてこれだけ、溢した。
 「と、い、れ」と。



「もうやだ……死にたい……」
 この世の終わりのような顔をしているのだろう。タオルで覆っている以上直接見ることはかなわないが。
「何を大げさな。酔った挙句に嘔吐など誰だって一度はやる失態だ」
 なりゆきでその現場に居合わせた挙句後ろから背中をさする羽目にはなったが、ああもよろしくない酒の飲み方をしていれば仕方あるまいという感想しかなかった。口をゆすいで戻ってきたマスターはベッドのふちに腰を下ろし、すっかり意気消沈している。そんなに恥ずかしいのか、という疑問は、確かに思春期の少女には酷なものだろう。
「二度やらなければいい話だ」
「……」
 返事がない。ただの屍……もとい、死んだように黙り込んでいる。まさに穴があったら入りたそうな態度にも見えた。
「……ああ、もしかしてすでに、」
 今ので二回目だったのか、と言うのはさすがに憚られた。とはいえ察してしまったものは通じてしまう。
「う……うう……もうやだ……お嫁にいけない……」
 両腕で頭を覆って嘆いている。少し、おかしかった。
「だから大げさだと言って――待て、さっき言っていたのはこのことか?」
 小さく頷く。私が何かしたかと思ったら、なんだ、こんなことだったのか。というか記憶にないが一回目も私は介抱していたのだろうか? 言葉を信じるならそうなのだろうが……。うむ、お互い酒はしばらく控えよう、と言おうとして、そもそも彼女にとっては控える以前の問題だったことを思い出す。
「こんなこと、じゃないですよ……人前で、吐寫物を……うえ」
 まだ気分が優れないらしく、タオルで口元を押さえている。さすがに二度やればもう出てくるものもないだろうが、
「しばらくじっとしていなさい、ああいや、横にはならないほうがいい」
 ベッドに横たわろうとしたのをとめると、中々しんどそうな顔が近寄ってきた。
「それは、先生の経験からですか」
 そのまま私の足の間に横向きに座り、しおらしく体を預けてくる。顔色はよくないし座っているだけでも堪えるのだろう。突き放したほうがいい気がしたが、なんとなく、されるがままに抱きとめた。これもとるべき責任の一端、ということにして。
「やってしまった側としてと、介抱した側としての、な」
 背中をゆっくり撫でると、いくらか気がまぎれるのか、呼吸が楽になったようだった。
「まあとにかく気にするようなことではない。思いつめるのはよしなさい」
「……でも、かっこつけたい相手っているじゃない、ですか」
 胸に当てられている頬がもごもごと動いている。歯切れの悪い口調はわからないでもない。私だって醜態を晒したらしいし、穴があったら入りたい程度には羞恥を覚えている。
「少しくらいみっともないほうがかわいげもあるさ」
「……まだ酔ってます?」
 心底訝しげな声だった。どうもこの手の単語は以降禁句にしたほうがいいらしい。
「まあでも、ちょっと嬉しかった、です。顎クイとか」
 なんだ顎クイとは。
「……そうか」
 シャツをそっとひっぱる君も中々のものだぞ、とは言わない。今自分が酔っていないとは断言できないのだから。
 それに、かわいげがあるのは態度だけのようだし。
「これでお酒臭くなかったら満点なんですけどね」
「……その台詞、そっくりそのまま君にも返したい」
 嫌いではないのだがね。


酩酊


 土台、何かにかこつけて騒ぎたいだけなのだ。
 カルデアの殺風景な通路を緩慢な足取りで進みながら、ロード・エルメロイ二世は内心でぼやく。
 10月3日はもう終わる。
 どこから聞いたのか知らないが人の誕生日を祝ってくれるという、その気持ちはありがたい。ありがたいから気持ちだけにしてほしかった。
 それが夕食時の食堂全域を巻き込んだどんちゃん騒ぎになってしまい、まぁそれもいいとして折りを見てずらかろうと思っていたのに誰も彼も目端が効くのかなんなのか席を空けるのも許してはくれない。そうこうしているうちに夜も更け脱落者も出てきた。まだ飲み足りないサーヴァントたちの目を欺きようやく食堂から出てきたのがつい今しがたのこと。
 こんな状況でなければ秋の風にでもあたって酔いを醒ましたいのだが、雪山のカルデアではそれもかなわない。最初の乾杯前にとっさに口にした酔い止めの薬のおかげで不快感はないが、水で顔を洗いたいな、と、思うくらいのもどかしさはあった。
 歩きながらあくびをかみ殺す。適度な酔いのおかげで今夜は寝つきがよくなりそうな気がした。そういえば食堂はあのままだろうか、と、後ろ髪を引かれる思いもしたが、赤い外套のアーチャーから進んで雷を頂戴しようとは思えない。そのまま、自室のドアを開けた。

「あ、おかえりなさい」
「――」

 驚いた。マスターがいたのだから。
「どうした、何故ここに?」
 日付も変わろうという夜更けに男の部屋に入るとは感心しない。いくら合鍵を持ち合う仲であったとしても。まあベッドに浅く腰を下ろしているだけで、別に寝そべっていたりしたわけではないからいいか、と、わけのわからない納得をするのも酒のせいだろうか。
 静かにドアを閉じ、部屋の中ほどまで進む。エルメロイは定位置でもある一人がけのソファに身を沈め、揃いのオットマンに長い脚を投げ出すとサイドテーブルのシガーケースから一本を取り出した。いつものようにポーズだけのお伺いを立てると、少女は微笑んだまま頷く。愛用のシガーカッターはもちろんここにはないので小さなナイフで先端を切り落とす。そうして彼が火をつけて、一息つくのを少女はただ見つめていた。いとおしいものでも見守るように。
「だってまだ、お誕生日のお祝いをしてないから」
 先ほどの問いに答える彼女は少し、困ったような笑顔だった。
 そういえば臨時宴会場に彼女の姿はなかった。見咎められることはないにしろ、ただ食事をするだけだろうマスターには騒がしくうっとうしいことこの上ないだろうと気にしていたのだが、取り越し苦労以前の話だったらしい。それはそれで、いいのかもしれないが。
「先にご飯も食べちゃってたから、みんなお酒飲んでるところに入りづらくて、それに――」
 少女が立ち上がり、彼の近くまで歩いてくる。
「二人だけでこっそりお祝いしたかった……なんて、だめ?」
 口の中で、ふかした紫煙がうずを巻いている。息をすることも忘れるほど、そう、彼女の言葉は、かわいかった。
「先生? わ、」
 いきなり手を引かれたと思ったら、膝の上に抱きかかえられていた。オットマンからは両脚が落ち、弾みでかたんと軽く蹴飛ばされる。
「びっくりした……何? どうしたの?」
「うん、君があまりにかわいらしいものだからつい、ね」
 シガーを持っていないほうの腕が腰に巻きついている。酒のせいかいやにねっとりとした声と仕草が少女の首筋をぞわりと逆なでた。
「……酔っ払ってるんですね?」
 が、彼女も心得たもので動じはしない。火のついた煙草を灰皿のほうへ避難させ、お水でもとってきますから、と立ち上がろうとするが。
「酔っ払ってなんかいないさ。飲む前に酔い止めを飲んだ」
 なまじ両手が空いたものだから、拘束が二倍になってしまう。
「ええと、その薬は効いてないみたいですが」
「そんなことはない。自分で調合したんだぞ」
 妙にムキになるのは、彼にしては珍しいことだった。少年のようでかわいい、とも思うが、これもまた酩酊の証拠に他ならないとしか思えない。思わずニヤニヤしていると、後頭部を抑えられた。
「え――」
 何をするのか、と、聞こうとするより早く口をふさがれた。そのまま熱い舌が入り込んできて、小さな口をゆったりと撫で回していく。
「ん、んっ……」
 何もかもが熱い。粘膜も、唾液も、焼けるような……酒の苦味が残っている。
「……やっぱり酔ってます、お酒の味がする」
 案外あっさりと唇が離れると、少女は不満そうに目を細めた。頬のあたりが赤いが、指摘しても否定されるだけだろう。
「気のせいだ」
「そうやってごまかすのって、よくないと思います」
「誤魔化してなどいない。事実を述べたまでさ」
「だからそういうのが――」
 口をつぐむ。馬鹿馬鹿しい、と思った。酔っ払い相手に理屈をこねたって通じるわけもない。この話はここでおしまい、と、少女は溜息を吐く。本日めでたく歳を重ねたいい歳の男は、こどものように少女の肩に頭を乗せて甘えていた。
「冷蔵庫に、」
「うん?」
「冷蔵庫に、小さいですけど……その、ケーキ、焼いてきたの、入れてます……」
 少し、身じろぎの気配がした。
「あんまり甘くはしてませんから。……ほんとはこんな状況じゃなかったら、何か気の効いたものを送ったんですけど……」
 買いに行く場所にあてもなければ時間も浮ついている余裕もありはしない。おまけに先立つものもなく、未だ相手の好みもとんとよくわからない。
 それを言いよどんでいると、片手がそっと取られた。
「いいや、十分だ。ありがとう。君に祝ってもらうのが一番嬉しい」
 そのまま、手の甲に口付けられる。騎士のようだった。
「え、円卓の誰かから入れ知恵でもされたんですか……」
 顔面から火を吹きそうなほど顔を赤くした少女がさっと手をひっこめる。
「失礼な。私だって君にならこの程度何度でもする」
「い、一回でいいです! もう……先生はしばらくお酒禁止……」
 両手で顔を覆うのも愛らしい。口の中でひそかに笑うと、エルメロイはその片手をそっと外し、自分の頬に触れさせた。少し冷たい手が心地いい。ああ、確かに酔っているのかもしれない、と、ようやくそのとき思い当たったがもうどうでもよかった。そのくらいの、幸福。愛される幸福、愛する幸福。その者に触れ、触れられる喜び。
 離れがたかった。
「……?」
 頬に手を当てさせて、それで、何をさせたいのかわからない。まだ淡く朱にそまる目元の少女が困惑している。
「まだちゃんと祝ってもらっていない気がする」
「え、あ、そっか……」
 そういえばそうだった。と、半端な横抱きにされたまま居住まいを正し彼女は微笑んだ。
「お誕生日、おめでとうございます。たくさんの幸せがあなたの毎日に降り注ぎますように」
「……ありがとう。君がいてくれればそれは、たやすいだろうな」
「――本当に、今日の先生は口説き上手ですね……」
 苦笑交じりのあたたかい幸福に包まれたまま、目を閉じる。ゆっくりと、愛する手のひらが頬を撫でる。それはそのままゆっくりと耳の後ろへと移動し、男の長い髪をしずかに梳いていった。
 何度も、何度も。
 抗いようのない心地よさに、声を発するのも億劫になってくる。ああ、このままこの腕の中で眠ってしまいたい。いや、もう眠っているのかもしれない。まどろみの中で呼びかける声があっても、聞こえない振りをしてしまおう。
「……髪、触られるの嫌なのかなって思ってました」
 間近で囁かれる声に首を振りたい。
 そうじゃない。だって、一度こうして触れられたら離れがたくなるだろう? 君の手は本当に、心地いいのだから。
「じゃあ、好き?」
 ああ、好きだ。ずっとこうしていてほしい。
「……わたしも。大好き……愛してます」
 額に唇が落とされた。なんだかんだで彼女も時折大胆になると思うのだが。
 ふと、ある種のむずがゆさが浮かんできた。うっすらと目を開けると、慈愛に満ちた視線が彼を見下ろしている。それが、ちょっと驚いたように見開かれた。
 両腕に力が込められたからだ。
「あれ? 起こしちゃいました……?」
「まああれだけ情熱的に愛を囁かれれば起きずにはいられまい?」
 少し意地悪く言うと、案の定みるみるうちに顔が赤くなる。
「じょっ、そ、そん……先生だって、好きって、言って……」
「なら互いの気持ちは同じというわけだ。まあ今更確認するまでもないがね。ところでどうだろう、続きはそっちにしないか」
 指差された先は、一つきりのベッド。
「なっ、あ、ば、ばか、ばかに……」
「していない」
「じょうだん、」
「冗談でも酔狂でもない。なにせ誕生日だから我侭の一つくらい許されてもいいと思うが」
 どうだろう? と、質問の体を取りながら彼に返答を聞く気はない。膝の上の愛するひとをそのまま抱え上げると、お構いなしに白いシーツに寝かせる。少女は困り果てた顔で、それでもいとおしげに、睨みあげた。
「もう、ほんとに、今後はお酒はだめ!」
 少し心外だった。酒が入っているのは否定しないが、全部をそのせいにされるのはたまったものじゃない。
「安心してくれ。酒を飲まなくても君に夢中だ」
「そ、そ、そういうのが……」
 語尾はごにょごにょと小さな口に消えていく。結局何が言いたいのかわからないが、何もかもは互いの唇と熱に解けていくばかりだった。