先生とぐだ子さんが無自覚両想いだったカルデアの話

 サーヴァント、アレキサンダーは自身のマスターのことを「それなりに」「高く」評価している。
 彼女が『魔術の魔の字も知らぬ一般人でありながらカルデアの全サーヴァントを率い人類の未来のために戦う』ことを余儀なくされたことを正しく、謙遜もおごりもなく理解し、そのために努力を惜しまない事実は「高く」買っている。
ただそこに「それなりに」という枕詞がついてしまうのはやはり彼から見ても少女の能力・知識ともにまだまだ未熟としか言えないため。魔術については知識の面は知っていることなどほぼ皆無、能力の面では一般人ゆえ魔術回路などほとんどなく、したがってかろうじて使用できる魔術も控えめに言ってお粗末なものと言わざるを得ない。
 カルデアが用意した諸々のシステムがなければこんな小娘が並み居るサーヴァントを使役することなど不可能だろう。と、最初のころは侮ってすらいた。非才、凡庸、月並。その評価は今も変わっていない。ただ、見る目が変わった。というか、彼女の性根のまっすぐさとでもいうべきものを思い知らされたのかもしれない。

 とにかく馬鹿正直で素直で心優しく、誠実だった。彼女と接していると毒気を抜かれる。むしろそれを通り越して「この少女は大丈夫だろうか? いつか心無い他人に誑かされ騙されてしまうのでは?」と果てしない不安を煽られる。
結果、ある者は妹のように、またある者は娘のように心配し気を揉み、はたまた別の誰かは、それがいいか悪いかはさておき小動物のように彼女を半ば愛玩する。気持ちはわからないでもないが、誰彼かまわず世話を焼かれるのはマスターとしてどうだろうか、とも思う。先日、子ギルからすら「マスターは一人にすると心配です」との言葉を頂戴し、大変なショックを受けていたのも記憶に新しい。
「そんなに信用ないのかなあ、わたし……」
「いいえ、マスターは信用に足る人です。僕が保証します。でも、信頼できる人間性を持っていたとしても、その人の人間性ゆえに行動が担保されないこともあるんですよ」
 要するにお人よしすぎて痛い目に合いそうなのだ。
「……うん?」
 彼女にとっては難しい言い回しだったのだろう、子ギルの真ん前で首を傾げていた。子供相手にそういう顔を隠しもしないところがまた無防備というか危なっかしいというか。もしあれが計算ずくだったとしたら、それはそれで大したものだし、いっそそのほうが彼女の今の立場としては安全かもしれない。
「マスター、そういうところが心配なんです。もう、ちゃんとわかってますか?」
「ええと……ごめん。でもギルくんのこともみんなのこともわたしは頼りにしてるし、信用してるから!」
「本当に心配だなあ……マスター、何かあったらぜったい、僕に言わないとだめですからね」
「うん、ありがとう、ギルくん」
 やりとりを見ているだけで和む、もとい、気が抜ける。
 合理性を重んじるならば、情に流され絆されるのは愚かだと笑うほかない。それでも、彼女という存在は、そして彼女の行動の根幹は、損得勘定や論理性という観念の外にあるのだろう。
 結局、というか、やはりというべきか、彼女は人を疑うことをしないし、性悪説なんて言葉も知らなさそうだし、他人の言動に何かの他意があるなんてことも思いもしないのだろう。
 それを美徳だと言ってしまえるほど、魔術の世界は甘くはない。

§

 わたしが「マスター」になってから三ヶ月が経った。突然言い渡された役割と内心の葛藤に折り合いをつけても、わからないことがわかるようになるわけではない。わたしはあくまで普通の、いや普通とすら言えないくらいに何もかもが中の下の人間だ。魔術だとかサーヴァントだとかはっきり言って何がなんなのかまったくわからない。わからないから、勉強した。いや、している。だってこんなわたしの双肩に、世界なんてものがかかってしまっているのだから。これはテストでもスポーツの試合でもない。負けたらそこで全部が終わり。逃げ出すなんて選択肢は端からない。たとえ一般人で落ちこぼれだろうが、わたしはわたしにできることを、やらなきゃいけないんだ。

「マスター、今日も先生のところに行くんでしょ?」
 その日もいつものように食堂でノートやらテキストやら携帯端末やらを広げていたわたしの正面に、赤い影がひらりと腰を下ろした。顔を上げると、予想通り、アレキサンダーのなつっこい笑顔がある。彼もわたしと同じようにノートやらテキストやら分厚いハードカバーの本やらを抱えているが、紅玉の目はわたしよりもキラキラと輝いていた。アレキサンダーは勉強が、というか、好奇心を満たすのがたまらなく好きらしい。その一心で世界を征服しかけたのだからこれはもう誰にも勝てない領分だろう。苦笑しつつも質問への答えは濁してしまう。
「……どうしようかなぁ」
 わたしが「先生」と呼ぶサーヴァント――ロード・エルメロイ二世――を、彼もまた「先生」と呼びはじめ、いつの間にか二人一緒に色々と教えてもらうようになった。別にアレキサンダーが魔術のイロハを教えてもらう必要はないのだろうけど、話を聞いているだけで楽しいらしい。それどころか最近は質問も増えてきたから本当に知的好奇心が旺盛なんだなと感心してしまった。
 ちなみに、わたしは特に彼だけを先生と定めて教えを乞うているわけじゃない。何も知らないわたしに何くれとなく教えてくれるのは、ヴァン・ホーエンハイム・パラケルススであったりあるいはクー・フーリンであったり、つまりはキャスタークラスのサーヴァントがほとんどだった。
 その中でも先生は、元々同じ時代に生きていた人間だったこともあってなんとなく話が合うというか、他のサーヴァントとの間にありがちな齟齬がなくて付き合いやすい。もとは教鞭を執る人だったというから、先生と呼んで慕うのもなんとなくしっくりくるように思う。
 ……。
 付き合いやすいなんて思っているのはわたしの方だけかもしれない。いや、そうに違いない。
 ドクター・ロマンから彼は時計塔の若き君主(ロード)で、とか、彼の教え子が軒並みすごくてなんだとかいう話を聞いてもよくわからない。わからないなりに、おそらくとんでもない人物だということはわかった。そうでもなけりゃ英霊に選ばれることもなく、擬似サーヴァントにもなれないだろう。

 そんなとんでもなく優秀で有能で偉大な人がわたしのような凡才で愚鈍で十人並みの人間の面倒を見てくれているだけでも奇跡みたいなものじゃないだろうか。
 いや、違う。この平々凡々な小娘に世界がかかっていると思えば瑣末事などさておきとっとと戦力になるまで鍛えねばと思うのでは?

 事実、先生はこう教えてくれた。
「マスターの能力はサーヴァントの能力にも影響を与える。優秀な魔術師がマスターであれば、サーヴァントもまたその能力を十分に発揮できる」
 つまり、わたしは早く一人前のマスターにならなければいけない。先生の期待に応えないといけない。一日も早く先生に認められるだけのマスターにならなければ。
 認められて、認められたら、それから……。
 わたしは「小さな目的」に到達できるだろうか。
 ふうと小さく息を吐くと、アレキサンダーが怪訝な顔になる。
「あれ? 行かないの? どうかした?」
 わたしがノートを広げたまま逡巡しているのがよっぽど意外だったのか、アレキサンダーは腰を浮かしかけている。
「うん……」
 食堂の奥、厨房からは何やら甘辛いような香ばしいにおいが漂ってきた。今日はアーチャーのエミヤが朝から仕込みを頑張っていたから、彼が当番の昼食が楽しみだ。ちなみに彼も大体同じ時代の世界に生を受けていたらしく、おまけに同じ日本人ときたものだから「話が通じる度」は先生以上かもしれない。ただし彼はいつも厨房に出突っ張りなのでわたしが教えを乞う余地はなさそうだけど。

 なんてことに意識を飛ばしながらアレキサンダーの質問にどう答えたものかと考えていると、口を開くよりも先に彼がわたしの背後に向かって手を上げた。
「あ、先生! ちょうどよかった!」
 ぎくりとしたのがばれていないといい。おそるおそるに振り返ると、ついさっき食堂に現れたらしい先生はいつもどおり、眉間に深い皺を刻み目を細めてわたしたちを見ていた。
「なんだ」
「なんだも何も、授業の時間だよ」
 いつ決めたのそれ……。
 という疑問はおそらくわたしだけでなく先生も抱いたことだろうし、アレキサンダー相手にそれを聞いても詮無いことだというのも、二人ともよく理解している。

――僕は君と一緒に……戦ったことがある、んだよね?
――……ああ。

 先生とアレキサンダーがカルデアで始めて顔を合わせたとき、何か微妙な空気が漂ったのをよく覚えている。詳細は話してくれない気がするから聞けないけれど、何の関係もなさそうなセプテムでも二人並んでそこにいたのだから因縁は海よりも深いに違いない。
 そういうわけで先生はわたし以上にアレキサンダーを知っていて、理解していて――二人の間にかつて何があったのかは知らないにしても、とにかく二人は親しいに違いない。先生はアレキサンダーからの質問にはいつも丁寧に答えるし、今だってさも当然のように自分の隣の椅子を引いて「ここにかけろ」と座面をぽすぽす叩かれれば、だだっぴろいテーブルを迂回してそこに座るだろう……と、期待していたのに、先生はそこから一歩も動かなかった。
「私は今から食事をする。それが終わるまで待ちたまえ」
 それからわたしの隣の椅子に手をかけ、でも少しだけ迷った挙句、一つ席を空けて先生は腰を降ろした。白い照明に対してまぶしそうに細められた目、上着からはふわりと煙草のにおいがする。いつもより強く香るから、きっと寝起きの一本を吸ったばかりに違いない。ということはこれから遅めの朝食かな、なら断られてもしょうがないよなあ。……我ながらこんな推測してるなんてちょっと気味が悪い。
 席を一つ空けたのはわたしがとっちらかした魔導書が場所をとっていたせいだろう。そっとまとめるように自分のほうへかき集めると、先生は居心地の悪そうな身じろぎをした。
 気まずい。気まずいといえば最近は先生と話らしい話をしていない。理由は多分……。
 アレキサンダーはお構いなしに、しかし不満そうにブーイングを飛ばし始める。
「ご飯食べながらでも授業はできるでしょー?」
「そんな行儀の悪いことは私はしない」
「戦じゃ当たり前だよ。こう、戦いながら食べて、進軍しながら馬上で寝る!」
「……前もそんなこと言っていたが、嘘だったろうが」
 前というのがいつのことなのか、わたしは知らない。
「そうだっけ?」
「そうだ。とにかく待ちなさい。忍耐も王たるものとしては必要だろう?」
「でも僕は早くこの前の続きを聞きたいんだけどなぁ。ねえマスター? マスターもそうでしょう?」
「えっ」
 二人で話していると思っていたのにいきなり声をかけられて、反射的に背筋が伸びてしまう。
 何も言えないわたしと先生の間に朝食のプレートが運ばれてくる。運び手は、最近お手伝いの楽しさに目覚めたナーサリーだった。スープがトレイに少しだけこぼれている。
「……あの、お食事、どうぞ」
「……ああ」
 ぎこちなく促すと、先生はバターナイフを取った。正しくは、バターナイフを取ろうとして他の食器にぶつけてしまい大きな音を立てていた。わざとではないにしろ、苛立った末の行動に見えていたたまれない。
 そして、追い打ちのような舌打ち。
「――あの……わたし、食事の邪魔になりそうだから失礼します……」
 立ち上がり力なく笑ったわたしを、先生は表情も変えずに見上げていた。少しだけ驚いたように見えなくもないけど気のせいだろう。これは彼の嫌いな日本人に特有の愛想笑いなのだから。

 食堂を出て歩きはじめると、ぐるぐると思考が渦を巻きはじめる。
 アレキサンダーは、先生にとってとても特別な存在だ。その彼から質問されても、最近は気が重そうに思える。さっきだって何に苛立っていたのかわからないけど、先生だって虫の居所が悪い日だってあるに決まっている。アレキサンダーを相手にしたくないくらい、気乗りしないのだったら、付き合いの濃さも長さもアレキサンダーの足元にも及ばないくらいのわたしは――
「しばらく、一人でがんばろうかな……」
 ちょっと優しさに甘えていたんだろう。最近のわたしはアレキサンダーと先生の様子を見るのが楽しくて、自分の勉強はおろそかになっていた。勉強しないのなら先生に見てもらう必要は確かに、ない。
 がんばらなきゃ。もっとがんばって、そして先生にいつか――褒めてもらいたい。それがわたしの「小さな目的」。
 先生のように立派な人に認められ、褒めてもらえたなら、きっとわたしも胸を張ってマスターを名乗れるに違いない。
 ……とはいえ、いつになるやら、と、ため息を漏らすと、後ろから穏やかに呼びかけられた。パラケルススだった。
「貴方には珍しいことですね」
 ため息のことだろうか。軽く笑ってごまかす。
「深呼吸してリラックスしてたんだよ。パラケルススこそ珍しい。工房から出てくるなんて」
 言うと、彼は少しだけ笑う。
「そんなに珍しいでしょうか? それはともかく、貴方に頼まれていたものができましたよ」
 何か頼んでいたっけ? と、一瞬考えてしまったけどすぐに思い出す。
「あ、もしかしてあれ?」
「はい、あれです。試してみますか?」
 魔術礼装の作成をお願いしていたのがほんのちょっと前だと言うのに、完成どころかもう実用可能とは。さすがカルデア随一の道具作成スキル保持者だと言うと、彼は少し困ったように笑った。照れているのかもしれない。
「試すなら人がいないところにしないといけないね」
「ええ。どこか適当な場所にレイシフトできれば……」

§

「あーあー。知らないよ、僕は知らないからね」
 心配するつもりなど毛筋ほどもなく、ただ煽るだけの言葉を聞きながらティーカップを口に運ぶ。薄い。先ほどただ見送ることしかできなかった小さな背中を思い出すと苦々しい気持ちになってちょうどいい……わけがあるか。
「知らないも何もだな……お前が毎回キャンキャンとうるさいから彼女が口を挟めなくなってるのが根本的な原因だろうが」
 少し前から「授業」にアレキサンダーが参加しはじめた。それはいい。むずがゆいような面映いような感覚はあるが割り切れる程度には私も歳を取った。問題は別だ。質問攻めのアレキサンダーに遠慮して、本来教授されるべき彼女が何も言えなくなってどうする。
「ええ~? キャンキャンって……犬みたいに言うのやめてよ」
 しかし天衣無縫の征服王はそこまで気が回らないのだろうか。毎度毎度おかまいなしにあれやこれやと尋ねることを憚らない。疲れる。自然対応も雑になる。なのにそれを察するのは心優しいマスターのほうと来たものだからもうどうしようもない。
「それから、根本的な原因は僕じゃないと思うよ」
 返事はしない。妙に真面目腐った声音なのは気になるが。
 ともかくアレキサンダーに何を言ったところで彼は己の知的好奇心のままに振舞うことをやめないだろう。それは私も大いに尊敬する対象である。それをやめたとき、王は息絶えるに違いない。
 というわけでアレキサンダーの参加も質問も突っぱねることも拒絶することもできず、問題はややこしく手がつけられないままだった。
彼女は一刻も早く一人前のマスター、ひいては魔術師となろうと尽力している。ならば、教えを請われた側としては、その努力に応えてやる義務がある。まして私は、非常に認めがたいことだが、あろうことか人を教え導く才に恵まれてしまった人間だった。サーヴァントとしての総合力はともかく指導者としての力は他の誰にも劣らぬと自負している。認めたくはないしそもそもこんな能力――まあ、今だけはこれがあってよかったとは思うが。

 ともあれ、したがって私が一番効率よく、彼女に教授することができるはずなのだ。

 私の考えを知ってか知らずか、アレキサンダーは溜息とともにこんなことを言う。
「今頃他のサーヴァントと一緒にいるのかなぁ?」
「……」
 否定できない。どうにも遠慮がちになりつつあるマスターは、そのうち私以外の誰かに懐いてしまうのではないか。人当たりもよく面倒見のいいサーヴァントは少なくない。キャスターのクー・フーリンとはいつも楽しげに接しているようだし、ジェロニモから北米に伝わる精霊やアニミズムの話を聞いたのだと楽しそうに報告されたことも一度や二度ではない。和気藹々とした勉強会は、堅苦しい私とのそれよりも格段に居心地がいいだろう。
 そう思うと何かしら苛立つものがあった。理由? そんなものはわからないが、刻苦勉励すべき彼女を甘やかしてどうするのだ、という心情に他なるまい。彼女次第で世界の命運が変わるのだ、ぬるま湯に浸からせている余裕などないだろうに。
 アレキサンダーは私のブランチから視線を上げ、じっと見つめてくる。欲しいのだろうか。食べたりないならエミヤに言って来い。と、言うより早く少年の口が開いた。
「早く取り戻さないと、マスターが他のサーヴァントに靡いちゃうかもしれないよ?」
 ぐうと苦虫を噛み潰したような顔をしているのだろう、今の私は。アレキサンダーのにやついた顔はある意味鏡のように思える。
「ああ、まったくだ――いや待て、大体お前が少し大人しくしておけば彼女だって逃げ帰りはしないだろうに」
「え、また僕のせい……?」
「せいとは言わないが、もう少し発言を控えてもらえば彼女も話しかけやすい……いや、もういい……」
 きょとんとした顔に何を言う気にもなれなかった。
 まったく自覚がないらしい彼には、溜息を禁じえない。

§

 まったく自覚がないというのは困ったものだと思う。
 先生とマスターがノートを挟んで授業をしているのを最初に見たとき、僕はそれをとても楽しそうだと思った。何かを教わるのはとてもすばらしいことだけど、そんなことではなく、二人の表情がとてもよかったから。
 成長した僕をかつて世界に現界させた人と、今の僕を世界に呼んだ人。その二人が互いをどう思っているのか。その授業に潜り込ませてもらって以来、どうやら僕は本人たち以上に理解してしまったらしい。傍目八目なる、マスターの国の格言がぴったりとあてはまる状況だ。

 ただ一人、先生に認められたくて、褒められたくて健気に頑張るマスター。
 他の誰でもない自分がマスターを一人前に育て上げたいという建前で独占欲を隠す先生。

 はっきり言って二人とも自覚してないのが奇跡だと思う。
我らがマスターは馬鹿がつくほど正直で素直な少女だ。先生の言動の裏には自分への好意が密やかながらも含まれているなんて思いもしないに違いない。おまけに先生のほうも自分は理知的で、甘酸っぱい感情などに流されるはずもない……どころかそんな感情が自分にあろうはずもない、くらいに思っていると、僕はそう踏んでいる。

 まあ確かに最近は僕も授業に「積極的に参加」しすぎたのかもしれない。そこは反省している。でも多少の障害があったほうが自覚も生まれる気がするのになあ。すれ違いしか発生しないなんて、中々上手くいかないものだ。

 だからこそ!
 ここ最近(先生と話す回数が減って)寂しそうな顔をしているマスターと、(かわいい彼女、もとい、かわいい生徒の浮かぬ顔を心配し気を揉んだ結果)苛立ちの原因を盛大に勘違いしている先生の仲立ちをしようと思っていたのに!

 これだ。
 相変わらず先生は、深く刻まれた眉間の皺をさらに深くして煩悶していた。マスターのことを考えているんだろう。四六時中不機嫌そうな顔をしている朴念仁に見えてその実彼はとても愛情深い。だから、外野なのに応援したくなるんだよなあ……僕も大概、おせっかい焼きなのかもしれない。
先生は我らがマスターをどうやってこの場に呼び戻すかの算段でもしているのだろうか、食事を平らげて上着から煙草を取り出そうとすると、エミヤの一言が飛んできた。
「ここは禁煙だ」
「……」
 気まずそうに、何も掴まない手で髪をかきあげると先生は席を立つ。
「一服してくる」
「うん」
「……席はこのままとっておけ」
「うん?」
「……授業の時間なのだろう」
 ぷいと子供のように背を向けて立ち去っていく背中が妙に焦って見えて、僕は笑いをこらえるのに必死だった。名軍師は今回、策など弄せず直接取り返しに行くらしい。そんな形振り構わない態度を見せてもまだ無自覚なのだろうか。

「マスターのほうはともかく、彼ほどの歳であの自覚のなさはどうなのだろうな」
 先生が平らげたプレートを片付けに来たエミヤが呆れている。勉強会は食堂でよく開かれるから、彼もいい加減二人のことは勘付いているのだろう。
 花がほころんだように微笑むマスターも、穏やかで優しいまなざしを向ける先生も二人きりのときにしか見られない特別なものだ。本当に、外野ばかりが気を揉んで本人たちには一切の自覚がない。
 マスターはなるほど確かに、まだ恋知らぬ年頃と言っても無理はない。でも先生は――あ、
「というか、あの歳だから素直になれないというか」
「ああ、つまり……まさか自分がああも歳の離れた少女に恋慕するとは思いもよらず……ということか?」
「そういうことじゃないかなあ」
「なるほど、先に進むのはずいぶん難儀そうだな」
 いっそ同情すらしていそうな溜息には、僕も深く同感だった。




 結論から言うとあの後私は結局、彼女を連れ戻すことができなかった。
自室にでもいるのかと思ったがそこには誰もいない。ではシミュレーションルームで模擬戦闘でもしているのかと見当を付けたがそれも外れた。一体どこに行ったというのか。まさかどこかにレイシフトしたのか。
 ブリーフィングルームに向かうと、果たして私の予想は的中していた。オペレートしているロマニは私に気づき、ヘッドセットを外してへらりと笑いながらこう言う。
「あの子ならマシュとホーエンハイムと一緒にレイシフト中だよ」
 どこに。
「えーと、ここは……いつだったか、アレキサンダーと一緒に行った孤島だね。なんでも礼装を使った魔術行使の練習をするとかなんとかで人があまりいないところがいいって……礼装ってなんだろう、アゾット剣かな―あれ、教授?」
 聞いていない。
 そんなことに挑んでいるなんて私は聞いていない。ロマニの声を背中で聴きながら、私は喫煙所に向かった。子供のようにイライラしている無様さは自分が一番、よくわかっている。

 煙に満ちた喫煙所には先客がいた。赤い外套と浅黒い肌のアサシンは私を見ても特に何も言わず、ごく自然に視線をガラスの外側―通路に向けた。生前の彼――今ここにいる彼とは非連続のそれだが――を聞き知っている身としては最初こそ得も言われぬ心境になったものだったが、今となっては彼もどうやらマスターののほほんとした雰囲気にあてられたらしい。戦闘中以外は相当穏やかに落ち着いてしまった彼に対して、セイバーとランサー――アルトリア・ペンドラゴンとディルムッド・オディナは、どうにも釈然としないのか未だに距離を置いているようだが。

 ともあれ、ここにいたのがあれこれ話しかけてくるようなサーヴァントでなくてよかった、と、それは純粋にほっとする。
 が、安寧は続かない。ポケットの中から煙草を取り出し、フィルターを咥えたところで気が付いた。ライターがない。駆けずり回っているうちにどこかに落としたのだろうか。踏んだり蹴ったりではないか。
 憂いたところで煙草が吸えるようになるわけでもない。
「すまんが火をもらえないか」
 やむを得ずエミヤにそう頼み込むと、彼は一瞬だけ不思議そうな顔をし、それでもジッポライターを投げてくれた。
「助かる」
「魔術師は――」
 再び手元に戻ってきたそれを弄び、アサシンはぽつりと漏らす。
「やはり魔術で煙草の着火なんてのは嫌がるものなんだな」
「それは、」
 できるできないの二択で言えば、もちろんできる。火と言う元素について、多少の面倒さはあるが。
 というか、彼に指摘されて、確かに魔術で着火してもよかったのかもしれない、とようやく思いあたった。
 苛立ちのせいでペースが乱れているのだろうか。
「……オイルライターで火をつけたほうが旨いからな」
「ああ」
 苦々しい言い訳を、しかし彼は薄く笑って受け入れた。
「よくわかるよ」
 彼は身をひるがえして出て行った。扉を開けた一瞬だけ、吸煙器の轟音が大きくなる。
 吸っては吐き、また吸い込んで、吐き出す。
 繰り返すうちに苛立ちは落ち着いてきたように思えた。
 さらに何度か繰り返せば煙草は灰となって落ちる。そのわずかな間、考えていたことは特に何もない。
 何もないと、信じたい。

§

 帰還早々にロマンから「君、ロード・エルメロイ君に何か怒られるようなことしたの?」と言われたわたしの心境を察してほしい。礼装を使った本日の修練の華々しい結果も吹き飛ぶくらいだった。
「な、なんで、ドクター」
 しどろもどろのわたしを、ロマニは苦笑しながら見下ろしている。
「君のこと探してたみたいだったから、レイシフトしたって教えたんだけどそれ聞くや否や、難しい顔してどっかにすたすた歩いて行っちゃって」
「……」
 全く心当たりはないけれど確かに、確かにそれは、怒ってる人間の所作と思えないこともない……。
「どうしようマシュぅ……」
 頼れる後輩を振り返ると、マシュはちょっと考えるように天井を上目づかいに見上げ、
「先輩、思い当ることはないんですか?」
 探偵か刑事のような質問をしてきた。
「ない……と思う」
「じゃあきっと誤解ですよ。ロードは理性的な人物です。話せばきっとわかってくれます」
 さあ誤解を解きに行きましょう。と、マシュに背中を押され、やってきたのは先生の個室。
「……出ませんね」
 インターホンのようなボタンを鳴らしても反応はない。その事実は私をさらに焦らせた。
「やっぱ怒ってるのかなあ……?」
「先輩……仮に怒ってたとしても、ロードは居留守を使うような人じゃありませんよね」
「うん……」
「もしかしたら今は手が離せないのかもしれません。ほら、ゲームの真っ最中とか……もう少し待ってみましょう」
 ちらと腕時計を見ると、時刻は午後十時を回っていた。そこでようやく、わたしはマシュの声に覇気がなかったことに気づく。
「ん……いいや。今度会ったときに話すよ。今日はマシュも疲れたでしょ? 休まないとだめ」
 首を振ってそう言っても、マシュは聞かない。
「先輩、わたしは大丈夫です」
「駄目! マスターなんだからマシュが疲れてるのくらいわかるよ。今日はわたしの特訓につきあってもらったんだからゆっくり休まないとダメなの! ほらお風呂!」
「わ、わ!? 先輩!?」
 と、無理矢理マシュを引っ張って、二人でバスルームを目指してその日は終了した。
 結局、先延ばしにしてしまったことは裏目に出た。顔を合わせづらくなったし、今更何をどう言えばいいのかわからない。
 わたしは、座学から逃げるように、レイシフト先やシミュレーションルームでの訓練に明け暮れた。パラケルスス特製の礼装に慣れる必要もあったし、ちょうどいいのかもしれない、なんて言い訳をしながら。
 油断すれば生傷ができる程度に緊張する修練は、頭を空っぽにするのにもってこいだった。
 アレキサンダーの快活な声も、先生の落ち着いた声も、久しく聞いていない。でも、それはしょうがないからと自分に言い聞かせる。
 それでも。
 どれだけ集中してみても、理由のわからない寂しさだけはいつまでも消えてはくれなかった。

§

 彼女と顔を合わせなくなってそれなりに経つ。最初の頃こそ茶化すように笑っていたアレキサンダーがだんだん腫れ物でも触るような態度になってきたのは地味に堪えた。
「別に、気にするようなことではないさ。時計塔でも私をよく思わない生徒など珍しくもなかった」
 それに対する反応はない。どこか哀れむような視線を感じるが強がっているとでも思われているのだろうか。心外だ。
「マスターは、先生を嫌ってるわけじゃないと思うよ」
「……何?」
 じゃあなんで私を避ける?
 豪放磊落、海闊天空。その実観察眼に優れおせっかい焼きでもある征服王の言葉を待っていたが、彼はへらりと笑ってごまかすだけだった。
「その答えは、自分たちで見つけなきゃ」
 答え? 自分、たち?
 眉間の皺だけが、深くなる一方だった。

§

 カルデアにサーヴァントが増えてくれば人口密度も高くなるし、非喫煙者にとってはほぼ唯一の憩いの場である食堂には今やいつ見ても人影が複数ある。めいめい気の置けない者同士が談話などをしている光景はおなじみになりつつあったが、時間を定めずにマスターが勉強をし始めると決まって歓談の声は抑えられるのが常だった。本人の人徳半分と、私を筆頭とする教師陣がかつて一喝したせいだろう。当然というものだ。サーヴァントはマスターの害になることをするな。

 日も傾くころだった。といってもカルデアの中でそれを体感することはできない。ぽつぽつと人影が窺える食堂を、私は喉の渇きを癒すために訪れていた。
 ……そういえば以前、「お茶をするならテラス以外ありえない」「小トリアノンを作ってほしい」「こんな殺風景なところで食事なんて拷問に等しい」などと、現界したての頃に味気のない人工照明器具にぐちぐちと文句をつけていた浮世離れした女性サーヴァントたちがいたな、と思い出す。
 思い出した理由は、その浮世離れの筆頭だったマリー・アントワネットと目が合ってしまったからだ。もし彼女の顔が私を見つけた途端にやたらと楽しそうにきらきら輝きださなかったなら、単に目が合った、で済ませただろう。猛烈に嫌な予感がしたのでそのままくるりと引き返そうとすると、椅子に座っていた彼女は勢いよく立ち上がり駆け出してきた。
「だめ! お待ちになって!!」
 美しき王妃に可憐な声音で呼び止められれば、おそらく世の男たちは一も二もなくその歩みを止め振り返るのだろう。私は逃げ出したくてしょうがないが、そうすれば多分、同じテーブルについているシャルル=アンリ・サンソン(と、もしかしたらアマデウスも)が放ってはおくまい。
 かしましい相手には関わりたくないと言うのに。
「……何か」
 げんなりしつつも振り返るとマリーは何も言わず、好奇心で心弾ませた表情と、何よりも雄弁な輝く瞳で背後を振り返り、一点を指差した。
「マスター、寝ちゃったの」
 彼女の言うとおり、視線の先でマスターはテーブルに突っ伏して寝ていた。食堂にいたことも知らなかったが、最近の彼女にしてはめずらしく実地訓練ではない勉強をしていたらしい。
 両腕はテーブルの下に投げ出したまま、左の頬をべったりと、広げたノートにくっつけて、呑気な寝息を立てている。緊張感など皆無、気の抜けた寝顔には呆れることしかできなかった。
「なんだか最近とってもはりきってたみたいだけど、疲れもたまってたんでしょうね。うとうとしてたから、無理しちゃだめよ、大丈夫? って聞いたんだけど、がんばらないとダメだからって、そればっかり」
 私からは見えないところで努力していたのだろうか。何故か腹が立った。
「それで、どうして私に?」
「どうして、って、あなた、あなたは……そう! 先生なんでしょう? 大事な生徒のめんどうは見るものよ?」
 面倒を見たくてもその生徒本人に避けられているのだが。
 私に何ができるわけでもないだろう。現に勉強だって自力でどうにかしているようだし。教師などいなくても――
「教師、か」
 小さな落胆が胸をついた。理由などわからないが、失望している自分の浅はかさだけはよく理解できた。
 ……苛立っているのが馬鹿馬鹿しかった。遅かれ早かれいつかは彼女もこの手を離れていく。それを惜しみこそすれ、私は子供相手に何を腹を立てているのだろうか。
 そう、彼女は教え子のようなものだ。接し方がわからないなんて寝ぼけたことを、どうして考えていたのだろう。私は教師で、彼女は生徒。それ以上でもそれ以下でもない。そう割り切れば取るべき行動などすぐに思いついた。
「わかった。叩き起こそう」
 冷静を心掛けながらそう言って歩き出そうとすると、思いきりコートの裾を両手で掴まれた。
「そぉぉぉぉじゃないでしょぉぉぉぉ」
 カエルのつぶれたような声を上品にしたらこんな風なのだろう。……自分でも何を言っているのかわからないが。
 マリー・アントワネットの叫びは、あくまで眠るマスターに配慮しての小声だった。咎めるような残念がるようないろいろな感情が入り乱れた奇妙な生き物の鳴き声のようなそれを聞きつつ、あわや尻もちをつくかというところを堪える。
「あなたはわかってない!」
 何をすると言うより先にぴしゃりと一蹴された。
 わかってない? 何を?
 眉をひそめていると、彼女は突然うっとりとした目つきで両手を組んだ。
「たたき起こすなんて乱暴は駄目! ベーゼ! ベーゼしかないわ! 眠れる女の子を起こすならやっぱりベーゼよ!」
 何がベーゼだ恋愛脳め。
「私たちはそういう仲ではない。却下」
「……まぁ」
 妙に不思議そうな声はスルーして歩き出した私がテーブルの前を通りかかると、サンソンがどこか気遣わしげな目をマスターに向ける。
「マスターは疲れているんだろう? 別に起こさなくてもいいんじゃないか。上着でもかけてやれば」
 ……どうして誰もかれもこう、甘やかすのだろうか。大体公共の場である食堂で寝るなんて言語道断にもほどがある。あまつさえ無防備に寝顔をさらし――今気づいたが涎まで垂らしているではないか。一刻も早く叩き起こす必要がある。彼女の名誉のために。
「そもそもこんなところで寝ることが淑女にあるまじきことだ。却下」
 くどくど説明するのが面倒だったので適当に弁明をするとアマデウスが「うへぇ」と嫌悪を隠さない声を洩らした。
「小さい男だな君……いい歳してチマチマとした言い訳をするものじゃないよ。六歳の時にマリアに求婚した僕の爪の垢でも煎じて飲むかい? 男なら部屋まで運んで朝まで過ごすくらいの――」
「アマデウス」
「やあ、失礼」
 敬愛する女性に咎められても甲高くアハハハハと一人だけ笑う男に背を向ける。背後では王妃殿が呆れ処刑人がその腕を振るおうとでもしているだろう。別に見たいとも思わないので絶対に振り返らないが。
 ともあれこのまま立ち去るわけにもいかず、叩き起こす案も却下された。マスターのいるテーブルまで到達したはいいものの、「監視」の目もあってか声をかけるのすらやりづらい。起こしたところで私を見た彼女がどんな顔をするか……いや、それはもう、気にしないと決めたはずではないか。嫌われていようが私は教師として彼女を導く。それだけだ。それ以外は望んでもいないし、用意されてもいないのだから。
「……」
 眠っている彼女の周りには、いつも通りの勉強道具が散らばっている。
 先述した浮世離れサーヴァントの一人であるエリザベート曰く、マスターの持ち物は「色気も可愛げもない」らしい。持ち物にそういったものを求めるものかどうかはさておき、私は、無駄のない実用的なものは好ましいと思う。てのひらより少し大きな白い携帯端末は電子化された書籍と、息抜きのゲームが入っているのだといつか笑っていた。恥ずかしながらゲームと聞くと興味をそそられるが、私は彼女がどんなゲームで憩いを得ているのか知らない。
 そう、何も知らない。その程度の関係だし、それで当然なのだ。
 隣の椅子に腰を下ろしても、警戒心のない寝顔はそのままだった。強いて言うなら一度だけ、すんと鼻をひくつかせたくらいだろうか。おそらく私の煙草のにおいを彼女は好んではいない。常に椅子を一つ分空けているのはそのためだ。
ためらいながらも、華奢な肩を手で揺する。
「起きなさい」
「……んん……」
 溜息のような唸り声で反抗したかと思うと、口の中からむにゃむにゃと「まだねむい」の一言が漏れてくる。まさに子供。虚をつかれたというか毒気を抜かれたというか、思わずふっと笑いがこぼれた。
「寝てもいいがここで寝るんじゃない。寝るなら自室に戻ってからにしたまえ」
「……せんせい?」
 もう一度肩を叩くと、ようやく彼女は半分ほどではあるが目を開けた。何度か瞬きをしたのちに私をその二つの目がとらえる。おそらくまだ半分寝ているというのに、ひどく緊張した。何を言われるのかと思うと指先が震えそうだった。
「起きたのなら、」
 さあ部屋に戻りなさい。そう言いたかった唇が動かなかった。

「ごめんなさい」

 マスターはきゅっと目をつむり、声を震わせる。
 何を謝罪しているのかわからなかった。こんなところで転寝しているのを謝るにしてはあまりにも痛ましい顔をしている。うっすらとまぶたを開いた彼女を見つめる私が何も言えずにいると、それがさらに不安を煽ったのだろうか。
「せんせい、わたしもっとがんばるから、きらいにならないで」
 すがるような言葉尻がひきつるようにかすれた。今にも決壊しそうだった。気を抜けば堰を切ったように涙が溢れてくるだろうことが見て取れる。
 君は何を言っているんだ。
どうして嫌われるなんて思ったんだ。
 嫌われているのは、私の方じゃないのか。

「わたし、せんせいにみすてられたら、やだ……」

 私には、どうして彼女がそう思ったのかはわからない。知る由もないが知らなくてもいいのかもしれない。テーブルの上から動かないせいで、一粒だけこぼれた涙がノートにしみを作る。シャープペンシルで書かれた字は、にじむことはなかった。
「――誰が見捨てるなんて言ったんだ。私は君を、嫌ったりしない」
 赤毛を乱さないように頭の上に手を置くと、表情は見えなくなる。泣き顔なんて見られたくないだろうという配慮を、何かの建前にしている気がした。涙を見て何かを感じるわけもないと言い切ってしまいたいのに、それができないことが恐ろしい。
「ほんと……?」
「ああ。嘘を言ってどうなる」
 私は微笑んでいた。
 私の言葉を聞いた彼女が、何かひどく、救われたような声音になったのがやけに嬉しかった。
「また勉強おしえてくれるの?」
「もちろんだ。アレキサンダーに遠慮なんかしなくていい」
 私は君の、教師なのだから。
 そんなこと、一々聞くまでもないことだろうに。苦笑してしまうのをとめられない。そんな些細な望みならいくらでもかなえてやろう、マスター。次は何がお望みだ?
 自分だけが彼女の望みを叶えてやれるとても思い上がっていたのだろう。浮かれていた私は、この世界の残酷さなど忘れていた。

「ずっとわたしの先生でいてくれるの?」

 指先が震えた。

 ――ずっと、とは、いつまでのことだろうか。
 当たり前のことだが、何もかもにはいずれ終わりがくる。けれどカルデアの事情は違う。サーヴァントは座に還り、その依代である私も、元いた場所……マスターである彼女が住まうこことは別の世界に、還らなければならないのだろう。
 すべてが終わったとき、「私の記憶」はどこに引き継がれるのだろうか。
 各々の元いた場所がどれだけ中心に近かろうと、別のものであることに変わりはない。私は彼女ではない彼女を見知ることもあるかもしれない。彼女は私ではない私と出会うかもしれない。
 仮に同じ世界に二人が現れたとして……サーヴァントの依代などという存在がこの記憶のすべてを引き継げるのだろうか。
 それでも、誓いたかった。

「――ああ。元より、そのつもりだ」

 それは約束などしようのない、偽りの永遠にすぎないのだろう。
 それでも。
 私は生涯忘れずにいたい。君という生徒がいたことを。勇敢で誠実で、ひたむきな少女のことを。
 たとえ今が未熟だったとしても、胸を張っていい。
 君は私の誇りなのだから。
 
「……ありがとう」

 彼女がふわりと微笑んだ気配がした。かざした手のひらは少し湿ったあたたかいものを感じる。
 私はまるで、嘘をついたことを悟られながら、すべてを受け入れられ、許されたような気がした。生ぬるい感傷だったとしても、それで救われる者があるのならそれは決して無価値ではないのだろう。甘ったれた感情であっても、そう、信じたい。
 感謝すべきなのだろうか、それとも恥じるべきだろうか。
 口もきけずにいる私の耳朶を打ったのは、しかし予想もしなかった言葉だった。

「せんせい、だいすき」

 その意味を理解するのに数秒を要したが、不思議なことに私は動揺することもなく落ち着いていた。
 向こうのテーブルでどうやら様子をうかがい聞き耳を立てていた三人組は、マリーが乙女もかくやの勢いで頬を染めアマデウスが口笛でも吹きかねないほどに笑みを浮かべサンソンはなぜか照れている。
 三人が三人して何を言いたいのかはよくわかったが、それを見ても、やはり私は奇妙なほど冷静だった。
 今のは所詮、好きか嫌いかの二元論での「好き」だろう。それで一喜一憂するほど私だって愚かではない。
 何より、我がマスターの小さな背中は規則正しく上下している。つまり、あれもまた寝ぼけた上での妄言か、寝言そのものだったのだろう。「もう食べられない」的な。
 まだ騒ぎ立てそうな三人に向かって、立てた人差し指を口にあてると、状況を察した彼らもまた、ふわりと微笑みを浮かべる。
 そのうち静かな寝息が聞こえてきた。頬にかかった髪を避けてやると、穏やかにうすく微笑みながら、彼女は眠っている。
 あどけない寝顔だった。きっと誰もが望む幸福と言うのはこういうものを言うのだろう。
 やわらかな髪に指先を何度もくぐらせるのは心地良い。いつまで眠っているつもりか知らないが、もうしばらくはこのままでもいいだろう。そのくらい、今の我々にも許されてほしかった。 




 煙草のにおいがした。
 すんと鼻をひくつかせて、それはあの人がいつもまとっているにおいだと思い出す。
 ここはどこで、今何時なんだろう。
 わたしは今、どこにいて、何をしているんだろうか?
 前後の記憶があいまいなまま、閉じられていた瞼を開く。白い照明、清潔なテーブル、かすかに聞こえる人の話し声。
 ああ、いつもの食堂だ。瞼をこすれば誰かが声をかけてくれる。
「やっと起きたわね、マスター」
 快活なあったかい声、ブーディカだ。もそもそと身を起こしながら「うん」と答えると、なんだかお母さんに起こされる子供みたいな気持ちになった。
「まだ眠い? お腹減ってる? ごはん食べる? 今日はあたしの特製、ヨークシャープディングとローストビーフだよ!」
 立て続けにこちらを気遣う台詞が本当にお母さんみたいで、思わずへへっと笑ってしまった。
「おいしそう……」
 言われてみればお肉の焼けるいい匂いがする。背伸びをすると、何かが背中からばさりと落ちた。
 なんだろう。
 拾い上げたのは黒いジャケットだった。明らかにオーバーサイズのそれはわたしのものではない。男物で、煙草のにおいが染みついている。煙草、煙草……わたしはこのにおいをよく知っている。
「あ……え……」
 導き出される答えに、頭が追いつかなかった。
 これは先生のスーツの上着だ。なんでそれがここに、なんて疑問はさすがに浮かばない。寝こけていたわたしを見かねてかけてくれたんだ。恥ずかしいやら申し訳ないやらで顔が赤くなったり青くなったりしてるに違いない。
「マスター、ソースはグレイビーでいいかな?」
 顔を上げるとエプロン姿のブーディカが、ソースパン片手にニコニコしていた。ああ、ありがたいけどそれどころじゃない!
「えっ、あっ、うん! でもちょっと用事があるから、もうちょっと待ってて!」
「冷めないうちに帰ってくるんだよー」
 さっと上着を畳んで両手で抱え、わたしは食堂を飛び出した。

 走り出したはいいものの、どんな顔をして先生に会ったらいいのかわたしにはわからなかった。なにせここ最近、顔を合わせるのを避けている。先生はそんなわたしのことを、見限ったかもしれない、そう思うと本当に、怖かった。
だけどこれは、チャンスかもしれない。
謝って、お礼を言って、そして――
「きゃっ!?」
「わっ!!」
 走りながら考え事をしていたせいで、わたしは通路の曲がり角から現れた人影に見事にぶつかってしまった。
 それは細身だけど力強くしなやかな肢体のアレキサンダーだった。外見に反して案外たくましい彼は、わたしに弾き飛ばされることもなく、さりとてわたしが転ぶのをただ見過ごすこともなく、ぶつかったと思った瞬間に驚くべき反射神経でがっちりと受け止めてくれる。
「大丈夫? マスター」
「う、うん! ありがと、ごめんね」
 せわしない台詞を少し笑い、アレキサンダーはわたしが抱えているものに気づいて「ああ」と頷いた。
「だから先生、シャツ一枚だったんだ」
「シャツ一枚?」
「うん。図書室に行ったら『ちょうどよかった、ここを一番よく使う人間として整頓をすべきだとは思わんかね』って書架整理に借り出されて。袖までまくってずいぶん気合入ってるなあって思ったら君に貸してたんだね」
「図書室、整理、腕まくり……!?」
 一気に色々な単語が雪崩込んだ頭が混乱し始める。
 図書室はわたしも利用してるから整頓のお手伝いはするべきだしというかなんで先生がそんなことしてるのかわかんないし腕まくりと袖まくりってどっちが正しいんだろう!?
 あわあわしているとアレキサンダーが小さく笑う。
「先生はまだ図書室にいると思うよ。マスターも行く? 僕はおなかがすいたから抜け出してきたんだけど」
「えっ……わたし一人で行くの……?」
 アレキサンダーは笑った。
「そんな心細そうな顔しないで。大丈夫。怒られたりはしないよ、先生は今日、上機嫌だし」
「上機嫌? 先生が? なんで?」
 アレキサンダーは含み笑いを漏らす。
「君のせいだよ」
「……え?」
「せい、っていうのも変か。マスターのおかげ、かな?」
「え、でも、わたし食堂で眠っちゃってて、上着だって借りたままで迷惑かけてるし、なんで……」
「ねえマスター」
 アレキサンダーの笑顔は、いつもよりちょっとだけ真面目な気がした。
「先生はそんなことで、人を嫌いになったりすると思う?」

§

 カルデアの図書室は規模が大きいわけではない。むしろ、図書室と呼ぶには小さすぎると言ってもいい。個室程度の大きさの部屋は、ドアを除いたすべての壁に所狭しと本棚が設置されている。書物はほとんどすべてデータ化されているこの組織にも紙の本を愛好する者は少なくない。わたしも例に漏れず、ここを頻繁に利用していた。
「失礼しまーす……」
 そっと扉を開くと、わたしの背丈くらいの脚立のてっぺんに先生が跨っていた。片手に本を積み上げて、もう片手で棚の中に収めている。
 アレキサンダーが言ったとおり、黒いシャツの袖を折って捲って、丸めたネクタイの先ををポケットに突っ込んで、それから少しだけ背を丸めて。
「――ああ、君か」
 意外そうな声と、いつもより穏やかな顔。先生が上機嫌かどうかはわたしにはわからないけど、アレキサンダーにはよくわかったのだろう。
 うらやましいと、思った。わたしもいつか、先生の表情から多くを読み取れるようになれるのだろうか。
「あの、これ、ありがとうございました」
 わたしは上着を持った両腕を軽く掲げる。上着の黒い生地は、図書室の暗めの照明を受けて控えめな艶を放った。
「まだ寝ているかと思ったが」
 そう言って先生は少し笑った。白い歯がちらと見えるのはとても新鮮で、いいもの見れた、なんて思えて―違う、わたしは嬉しかった。先生が笑ってくれるのが嬉しかった。
 先生がわたしを見て、笑いかけてくれるのが嬉しかった。
「……そんなに長く寝たりしません」
「そうか」
 ちょっと不貞腐れたわたしを、先生はまだ笑っている。
「それはテーブルの上にでも置いてくれ」
「はい。……あの、先生、わたしも手伝います」
 ブーディカが待ってるけど、ごはんの時間だけど、もう少しここにいたい。
「そうか、助かる」
「これを戻すんですね?」
「ああ」
 上着を置いたのと同じテーブルにできていた三つほどの本の山は、誰かが読んで棚に戻し忘れたのだろうか。それとも見当違いの棚に収まっていたのを先生が元に戻そうとしているのだろうか。
「なんだか、意外です」
「何が?」
「先生がこういうことするの」
 まるで小間使いのやることなのに。こんなこと、言ってくれたらわたしがやるのに。
「意外、か」
「……少し、ですけど」
「実は、というほどでもないが、私はこういうことが得意でね。学生の頃はよくやっていた。やっていたというかやらされていたというか……まあ、嫌いな仕事ではないのだが」
「へえ……」
 何かを懐かしむように、軽く目が細められる。
 わたしは何も知らない。先生がどんなふうに生きていたのか。わたしくらいの年のころに、どこで何をしていたのか。
 わたしは知りたい。
「……そういえば」
 見上げていた顔が一瞬強張った。何故だろうかと思う間もなく、質問をぶつけられる。
「はい?」
「パラケルススと礼装を使った実地訓練をしていると聞いたが……」
「え、誰から聞いたんですか!?」
 誰にも、特に先生には知られたくなかったのに!
 わたしが慌てながら悲嘆に満ちた顔をすると、今度は先生がしどろもどろになっている。
「いや……その、ドクターから」
 ロマン……あとでストックのおやつ食べつくしてやる!
 さりとて知られたものはもうどうしようもない。大人しくすべてを白状するのは癪だけど、誤魔化せるほど回る頭は持ち合わせていない。悲しいことに。
「実は……アゾット剣みたいな小さい杖を作ってもらって、今よりちょっとくらいマシな攻撃魔術、使えるようになりたくて……あ、ちゃんとできたんです、礼装がすごいから、わたしでもできた、って、それだけなんですけど……」
 さすがに一撃必殺は無理だけど、足止め程度の魔術は使えるようになった。もっとちゃんと使えるようになってから先生に見て貰おう。うまくできたら褒めてもらえるかな、なんて思ってたのに。だから秘密にしてたのに。
 案の定、というべきか、先生は渋い顔だった。
「君が前に出て戦う必要はないだろう?」
「でも……」
「マスターは後方で上手く采配を振るえばいい。あえて危険を冒すことは――」
「でも、わたしも先生みたいにかっこよく、魔術を使ってみたかったんだもん……」
 指パッチンで魔術とか、かっこいいにもほどがある。
 言った瞬間、先生の膝から本が数冊、落下した。
「……先生?」
「……なんでもない」
 脚立の下に落ちた本を拾い集めて渡すと、眼鏡の奥の目元がどことなく、赤かった。
「もしかして……先生、照れてますか?」
「……馬鹿を言うんじゃない」
「でも顔赤いです」
「照明のせいだ」
「ええ~?」
「なんだその返事は」
「じゃあそういうことにしておきます」
 先生は釈然としない顔をしていたものの、それ以上何も言わなかった。残りの本をすべて棚に戻し、脚立を棚の隙間に仕舞って整頓は終わった。埃を落とすように両手をはたきながら、先生は微笑む。
「手伝ってくれて助かった」
「いいえ、わたしだってここ、使います、から……」
 笑いかけられて熱くなった頬を隠すように、とっさに俯いてしまう。
 どうして、なんてことは考え込むこともしなかった。
――先生はそんなことで、人を嫌いになったりすると思う?
 アレキサンダーの言葉を、頭の中で繰り返す。
 先生はそんなことで人を嫌いになるような、狭量な人じゃない。そんなのわかりきってるのに、わたしは先生に嫌われたかもしれないって、そう思うのが怖かった。
 だって、特別だから。
 先生にだけは嫌われたくなかったから、些細なことも気になってしょうがなかった。

 顔が、熱い。
 この熱が何なのかわたしは多分、知っている。
 本当はずっと前からわかっていたのかもしれない。
 認めようとしなかっただけで、もしかしなくても、ずっと前からわたしは、先生のことが――

「どうした?」
先生は黙り込んだわたしの顔を、怪訝な顔でじっと見下ろしていた。
「わたし―」
 馬鹿なことを口にしようとしたわたしを、特別な想いをこめて見上げてしまったわたしを見つめ返す先生の顔に、かすかに、けれどはっきりと困惑が浮かんだ。
 さっと血の気が引く。これは、いけないこと。
 こんなこと言えない。
 あなたを困らせたくない。
「……なんでもないです」
 早く行こう、と、促すしかできなかった。
 先生は「そうか」と、小さく頷き、部屋の照明を消した。
 ふっと明るさが消えると、冷静さを取り戻せた気がする。
 わたしは子供で、生徒で、先生は大人で、先生で。
 わたしたちはいつか別々のところに帰るしかない。
 だから絶対にこの気持ちは言えない。
 わたしたちは離れ離れになるしかないのだから。

 この気持ちは凍らせなきゃいけない。

§

 拙(まず)いことをした。
 彼女の目が私を見ていた。射抜かれるほどに強い感情がそこにはあった。
 勘付かないほど、私も愚鈍ではない。しかし、勘付かなければよかった、とも思った。
 正直に言うと困惑した。顔に出てしまうほどに動揺してしまったのだろう。私を見つめる彼女の表情は瞬時に引き攣って、なんでもないのだとごまかすように笑った。
 悲しい笑顔だった。
 素直で正直な少女は、聡明でもある。私の表情を見て、自らの感情に残酷に斧を振るったのかもしれない。湧き上がった想いが実を結ばぬよう、呪いをかけたのかもしれない。

――ねえ、もしもマスターにその手を差し伸べられたら、先生は振り払ったりしないよね?

 先ほど書架整理の最中にアレキサンダーから投げられた疑問を思い返す。
 あれは単に指導の話かと思って「当然だ」と答えたが、直後に浮かんだ呆れたような笑顔から察するに、私は考え違いをしていたに違いない。そしてそれは当たっていた。
 ようやくわかった。こういう意味だったのか。
 大概世話焼きというか人の事情に突っ込んでいくのが好きというか、とにかく彼の性格などわかりきっていたことだがバツが悪い。
 あの食堂での出来事だってそういうつもりで言っていたに違いないし、彼女と顔を合わせなかった日々は本心から気を遣ってくれていたのかもしれない。
 これをバツが悪いと言わずしてなんと言おうか。
 それに、私はあのとき、本当は嬉しかった。

――せんせい、だいすき
 
 たとえ寝ぼけた上での一言であっても、嬉しかったのだ。
 他人から慕われることへの充足感だとか安息感だとかではない。もっといびつで、生臭く、あるいは汚らわしくすら思われる感情の発露。先ほど彼女の目に浮かんでいたものと同じ感情が、私の中に確かにある。私が無意識に押し殺していたそれと同じものを彼女の中に認めて、それが―嬉しかったのだ。
 そう、寄せられた好意に対して「嬉しい」と感じた時点ですでに答えなどわかっていた。アレキサンダーは、王は、臣下の胸中などお見通しだったのだろう。
 卑屈で臆病で、行き着く先を知っていてなお、手を伸ばしたがる愚かな男のことなど。

§

 部屋を出て行こうとしたわたしは、再び灯った照明の明るさに顔を上げた。
 誤作動なんかじゃなかった。視界の端で、先生がスイッチを操作するのが見えていたから。
 どうしてまた灯りをつけるのだろう。逆光の下、見上げた先生の目はじっとわたしを見ていた。
 先生の目は真剣で、まっすぐで、わたしが考えていることなんて全部見透かされそうで、口から心臓が飛び出しそうなほどだった。
 目を逸らさなきゃ。そう思うのに、できない。
 永遠にも思えた静寂を破ったのは先生の一言だった。
「もしも、」
 続きを聞きたくない。その一心で顔を伏せる。
 わたしを見下ろしている先生の目があまりにも強くて、そして、期待してしまいそうなくらいに熱を持っていて。
「言いたいことがあるのなら―言ってくれないか」
 どんな顔をしているんだろう。
 どんな顔で、そんなことを言うんだろう。
「……先生、わたし、先生を、困らせたくない」
 
 だけど本当はわたしのことをもっと考えていてほしい。
 わたしのこと、もっと見ていてほしい。
 わたしのことで困ってほしい。
 わたしをずっと捕まえていてほしい。
 わがままを言うわたしのことを許してほしい。
 しょうがないやつだと笑って欲しい。
 同じ景色を見ていたい。
 手をつないで綺麗な海を見に行きたい。
 煙草の香りが移るくらいに一緒の時間をすごしたい。

 わたしは、わたしは、あなたが――

 何も言えずにいたわたしの名前が、小さく一度だけ呼ばれた。先生に呼ばれたのは初めてで、顔を上げてしまう。
 先生の唇は緩やかに弧を描いていた。逆光でも目元が赤いのがよくわかる。苦笑ともとれそうな微笑は、まるで何かを堪えているようで、まるでわたしと同じようで――
 それでも、触れ合ってしまうくらい近くにいるのを拒まれなくても、わたしはまだ怖かった。
 この胸に生まれてしまった気持ちが、凍らせようと決めた感情が、最後に朽ち果てる未来が怖かった。
 何もかもが粉々になるくらいなら、ずっと今のままでいいとすら思えてくる。

 それでも、先生は薄氷を踏んだ。

「……おそらく、だが、私は困らないと……思う」

 そしてそっと、わたしの手が取られる。
 ああ、そんなことをされたら、指先から、手のひらから、気持ちが全部溢れて、零れて、ばれてしまう。
「……ずるい、そんなの」
「そうだな」
 先生の声はとても小さくて、囁くような小声が聞こえてしまうほど、わたしたちの距離は近かった。
「それでも私は、君の、言葉が聞きたい」

 なんてずるい人だろう。

「わたし、こどもだもん」
「そうか?」
「先生とこんなに歳が離れてるし、魔術だってぜんぜん、できません」
「どちらも関係ないんじゃないか」
「……わたしが気になるんです」
「そうか」
「もっとふさわしい人が、きっと先生のこと待ってる」
「……ふさわしい、とは?」
 いじわる。
 うっと言葉に詰まったわたしの頬に、先生の手が触れた。
 先生は穏やかに、微笑んでいる。
「私に配慮してくれているのか、それともただの言い訳か。どちらかわからんが、君の態度を見ていると……そこまで考えて、それでも泣きだしそうになるほど困るくらい、私は想われているのかと自惚れてしまうな」
 大きな手のひらがゆっくりと頬を撫でる。やさしすぎる触れ方に、とうとう涙が溢れてしまった。
「あ、いや……本当に泣かせたくて言ったわけでは……すまん……言い方が悪かった、どうも私はこういうのは……」
 ぎょっとした顔が一転、慌てたように眉が下がって、指先に涙をすくわれる。泣かないでくれ、と、弱り果てた顔は、身をかがめてくれたせいでわたしの目の前にあった。
「先生はどうして、わたしを、なぐさめてくれるの?」
 どうしてそんなに一生懸命な顔をするの?
「……君が大切な人だからだ」
 嘘偽りなんて一つもない言葉だった。
 また、涙がこぼれる。
「……でも、全部終わったら、わたしたち、離れ離れになっちゃう」
 先生がいた世界には、カルデアはない。他ならぬ先生がそう教えてくれた。
「そうなるかもしれないし、そうならないかもしれない」
「そうだけど……そうなったら、やだ……わたし……悲しいのは、いやだ」
「……」
「先生と離れ離れになって、先生がわたしのこと、忘れちゃうのなんて、やだ……」
 世界に抗うなんて、出来るんだろうか。
 人理復元が成ってしまったら、この世界の「異物」は修復され、あるべき場所に還ってしまう。サーヴァントは座へ、特異点は元の時代へ、そして先生はここではない世界へ。
 わたしのいる世界にいる先生は、もしかしたらわたしのことなんかこれっぽっちも覚えていないかもしれない。
「君を絶対に忘れない――というのは、確約できない」
「……こういうとき嘘でも忘れないって言うんじゃないですか」
 あまりにも真面目な口調だったので思わず涙目で睨んでしまう。と、不意に目の前が暗くなった。
「私はこれと決めた相手には誠実なんだ」
 抱きしめられている。
 気づくのと同時に真っ白になる頭、かろうじてこぼれた言葉は、我ながらちっともかわいくなかった。
「い、いきなりこんなことする人、誠実って言いません」
「……こういうときは黙って抱かれているべきだとは思わないか?」
 先生は呆れていた。でも、少しだけ、声が笑っていた。
 ゆっくりと、頭の後ろが撫でられる。
「忘れられるものに、価値はないのだろうか? 私はそうは思わない。いや、たとえ価値がなく無駄だと言われたとしても、私は今、君を拒みたくはない。君の想いを無碍にしたくない」
 理詰めのような言葉が、耳の真上で囁かれる。言ってることはわからなくはないけれど、先生が何を考えているのかはわからなかった。
「自分の想いが満たされず、ただ枯れていく、それでいいのか?」
 それは、誰のことを言っているのだろう。
 本心が見えずに不安だったわたしの耳は、震える声を聞いた。

「私を……拒まないでくれ」

 心臓の音が聞こえる。
 どう聞いても落ち着いているとは思えないほどに、早く脈打っている。
 先生の声は震えていた。わたしと、同じだった。
 先生も、怖いの?
 そう思うと、安心で気が緩んで、また涙がこぼれてくる。
「先生……」
 それでもこの人は、飛び越えてきてくれた。わたしの手を取って、刹那の泡沫であっても、それが欲しいと言ってくれた。
 なんて強い人だろう。なんていじらしい人なのだろう。
わたしは彼のそういうところが好きなんだと思う。わたしも先生みたいになりたくて、ああ、この憧れがすべてのきっかけだったに違いない。
 もう、どうしたらいいのかなんてわかっていた。
 わたしが先生の背中に両腕を回すと、いっそうきつく、抱きしめられる。苦しいのに、嬉しかった。嬉しいのに、苦しかった。
 だいすき、と、言いたいのに、嗚咽しかこぼれてこない。
 先生はシャツの胸があっという間に温かく濡れていくのも構わず、ただわたしのからだを抱いていてくれた。時折優しく髪を撫でて、慰めてくれる。それから小さくわたしの名前を呼んで、それがとても幸せなことのように穏やかに笑ってくれる。
「もう少しだけ、こうしていていいだろうか」
 返事なんかしなくたって、わたしたちはずっと、こうしているのだろう。
 だんだん穏やかになっていく鼓動を聞いているのが心地いい。微睡の中のような静けさは、いつまでも部屋に満ちていた。