学パロ「らあめん」

 こんな感じの設定で繰り広げられる学パロです。

 

  時刻は午後五時三十分、帰宅途中の人影もだんだんと増えてくる街並は冬の暗さをまとっている。雪の気配はなく数日晴れ間が続いたためか、乾いた埃のようなにおいがなんとなく感じられるようだった。
一月。暗い色のコートに身を包んだ人々が多い中、その一角はひときわ鮮やかに目立っている。

「先に言っておくけど! これは特例中の特例ですからね! そこのところ、誤解しないように!」

 張り上げた声は少女のものだった。その銀の髪は冬の星のように美しい。つり上がった眉と目はキツい印象を与えるが、全体に漂う雰囲気を加味するとそれはむしろ高貴さから生じるちょっとした威圧感なのだと気づく。さらに彼女と多少なりとも会話をすればそれが大分無理した結果の、つぎはぎだらけの鎧なのだということもわかるだろう。
「はいはいわかってます。かいちょーはわたしとの賭けに負けて、しょーーーがなく、ラーメン食べに来てるんですよねー」
「そうよその通りよ……その通りだけどなんかカンに触る言い方ね……」
 橙色の髪の少女、立香がのほほんと受け流すように頷くと、彼女――オルガマリー・アニムスフィアはじっとりと横目で後輩を睨んだ。それを桜色の髪の、マシュ・キリエライトがいなしている。
「あの、お二方とも、お店の軒先ですから……」
 マシュの言うとおり、三人が立って話し込んでいるのはラーメン屋の店先である。先に食券を購入するタイプの店舗で、彼女らから少し離れた券売機の前にはそこそこの列ができていた。寒空の下に香ばしい油の香りが漂えばふらふらと引き寄せられる人が出るのも当然なのだろう。
仕事帰りの成人男性や大学生とおぼしき男子のグループがメインの客層だからこそ、立香たちの存在が際立っている。とはいえ言い出しっぺの立香は平然としているし、マシュもさほど居心地が悪そうではない。ただオルガマリーだけは、さっきからキョロキョロと落ち着きがなかった。
「……こんなところ、誰かに見られたら弁解の余地もないわ……生徒会長のわたしが買い食い、しかもラーメンなんて」
 今にも顔を覆って倒れそうな彼女だが、厳密に言うと帰宅時の買い食いその他が校則で禁じられているわけではない。ないのだが、オルガマリーにとっては規則云々を抜きにしても耐えがたい所業らしい。
「そんなこと言ってられるのも今のうちですよ」
「な、なんですって……!?」
 にやりと笑った立香にオルガマリーがおののき、後ずさる。
「オルガマリー会長はここのラーメンの美味しさを知らないのです……知ったが最後、もう体面なんか気にしてられなくなります……そう、なりふり構わず通い詰めるほどに……」
 いっそ悟りでも開いたのかと言いたくなるような慈悲(というよりはある種の哀れみ)を思わせるアルカイックスマイルに、オルガマリーはつかみかかった。
「や、やめなさいよそういう不吉な予言は!!」
 そうなりそうだから怖いのだ、とは言わず、悲しき生徒会長は立香の肩を掴んでゆさゆさと揺さぶることしかできない。それも何の効果も得られていないが。
「あの、それで先輩、ここは食券を先に買う必要があると思いますが」
 マシュはさりげなく財布を持った逆の手で券売機を指さす。どうして買いに行かないのか、と、聞きたいのだろう。
「うん、そう。かいちょー、はいこれメニュー」
 立香は素早くコートのポケットからスマホを取り出すと、あらかじめ開いていたらしい店舗ウェブサイトのメニューページを示した。
「あ、ありがとう……。 ? でもどうして? 券売機にもメニューは書かれてるんでしょう?」
「だって会長、券売機の前で迷って時間かけて他の人に迷惑かけた挙げ句テンパって変なの選びそうだもん」
 ああ、確かに。とは言えないマシュだった。それは本人も自覚していたらしく、ぐむむと口をへの字に曲げて立香を睨んでいたのだが、
「初めてなんでしょ? だから美味しいの食べてほしいし。会長、野菜ラーメンとかどう? 麺少なめとかできるよ?」
 立香は立香なりに気を配っているらしい。そうでもなければメニューのページを開いて用意しておくなんてことはなかっただろう。ちょっとしおらしくなったオルガマリーは、メニュー写真を吟味して、結局立香の勧め通りに決めた。年頃の女子らしくカロリーと栄養素を気にした結果である。こういうところは写真と実際に提供されるメニューに乖離が甚だしいのが一般的だと聞くし、こんなに山盛りの野菜は乗ってこないだろう、と、消極的な期待をして。
「野菜ラーメンは男女問わず人気ですからね。シャキシャキのもやしにキャベツ、あとキクラゲの歯ごたえも……それにコクのあるスープがからんで……」
「ずいぶん詳しいのね」
「おっ、会長に褒められた。明日は雪かな?」
「ちょっと」
「わ、わたしはこれにします! 豆乳味噌ラーメン!」
 いつも通りに立香にいじられてムキになるオルガマリーを遮るようにマシュは「女性に人気!」の見出しが付いた写真を指さした。
「先輩はどうするんですか?」
 もうずいぶん通っていそうだからメニュー表など不要だろうが、それでもマシュは立香が何を選ぶのか気になった。尋ねられたほうの立香は、待ってましたと言わんばかりの笑みで画面をスクロール、ぴたりととめて二人に掲げる。
「わたしはもう決めてるから。そう、昼休み過ぎた頃から決めてた……黒味噌ラーメン半熟煮卵乗せに……!」
 一見目を疑いたくなる漆黒のスープに、ゆでもやしとニラのトッピング、チャーシューは基本の味噌ラーメンよりも一枚多く、+百円で追加できる煮卵はとろりとした黄身が目にも鮮やかだった。そのメニューの善し悪しはさておき、オルガマリーは一点において途方もない呆れを感じた。
「昼休みって……あなた、よく食後からそんなこと考えられるわね……」
 腰に手を当てたポーズをされても立香はまったく動じない。
「一度考えたらもう頭と舌がラーメンモードになっちゃって。さ、行きましょ行きましょ、券売機に並びますよー」
「はいっ」
 そうして三人が券売機で多少もたつきながらも食券を購入し、カウンター席に案内されるころには結局六時を回っていた。客足も増える時間帯、店内は人いきれと厨房の熱気でずいぶんあたたかい。オルガマリーもマシュもスタッフの威勢のよすぎるかけ声に圧倒されつつも、コートを背後のハンガーに掛けてカウンタースツールに腰掛ける。立香は食券を回収にきたスタッフに「野菜ラーメンは麺少なめで」と告げ、三人分のお冷やを代わりに受け取った。
「慣れてるわねえ」
 グラスを受け取りつつオルガマリーが舌を巻く。一つをマシュに回しながら、マシュも一緒に行ったりするのかと聞くも、ゆったりと首を横に振られる。
「わたしもこういうのは初めてです」
 両手でグラスを包み、マシュは楽しそうに笑った。
「……そう」
 なんとなくほっとして、オルがマリーはふと考える。楽しい、という感情は、自分も否定しない。なぜ楽しいのか、それは、きっとこれを「いけないことだ」と思っているからだろう。厳密に言えばこれは確かに、校則違反でもなんでもない。ただ単に自分の中の「こうあるべき」という理想像から、あるいはそれを目指そうとする意思から逸脱し、羽目を外しているだけで、それが真面目なオルガマリーにはどうにも、いけないことだと思えて仕方ないのだ。
(そうじゃなくてもわたしがラーメン屋なんて……)
 ここで冒頭に述べられた立香とオルガマリーの「賭け」を説明すると、「期末テストで立香が一つでも学年一位を取るか、あるいは合計で百位以内になれば立香の勝ち、そうでなければオルガマリーの勝ち」という内容だった。絶対にあり得ないと踏んでいたのに、結局立香は見事にある科目で一位を取った。取ってしまった。こんな(立香にとって)分の悪い賭けを承諾させるためのやりとりを思い出してしまう。

――あなたね! 仮にも生徒会なのになんなのこの成績は!?
――って言ったってかいちょーが勝手に入れただけじゃないですかー
――言い訳しない! ああもう、次の試験で百位以内に入らなかったら冬休み中わたしの邸で無償労働してもらうわよ!?
――エーーッ!? この二十一世紀にそんな人権無視がまかり通ると思ってるんですか!! アムネスティが黙ってませんよ!?
――フン。ここではわたしが絶対、わたしが法なのよ。特別権力関係が適用されるのよ、多分。……ま、そうね……その代わりあなたが条件を満たしたら何でも言うこと聞いてあげるわ――公序良俗の範囲内でね!!
――ええーー……いや待てよ……会長、それって一教科だけでも一位取ったら、とかにまかりませんか……
――はあ? ……そうね、まあ、いいわ。一教科だけでも学年一位が取れたらね、できるもんならやってみなさい

 その結果がこれである。
 まあ、「会長とラーメン食べに行きたい」なんていうのが立香たっての望みとは思えないのでまたいつものように思いつきで言い出しただけなのだろう。それにしても、本当に一位を取るとは思えなかった。
(というか、一位を取れるだけの自信があったから言い出したのかしら……まさかね)
 立香のことだからどれか一つに注力すればなんとかなると踏んだのだろう。オルがマリーは厨房から聞こえてくる野菜を炒めるすさまじい音にびくつきながら、何気なく入り口の方を見遣り――
「――うぇっ!?」
 飛び上がらんほどに驚いたオルガマリーに、両脇の二人も驚く。
「何!?」
「どうしたんですか、会長!?」
 ちなみにカウンターの並びは奥からマシュ、オルガマリー、立香の順で、マシュは壁を左手側にしたどん詰まりに位置している。その三人がそろって右向け右をした先、入り口の暖簾の下には――
「――」
 ロード・エルメロイ二世がいた。
「ちちちち違うんです!!」
 無意味に慌てふためくオルガマリーより、呆気にとられているマシュより、何も言えずにぽかんと口を開けたままの立香のほうが内心は大変なことになっていた。
 なぜここに先生がいるのだろう?
 眼前の人物はいつものようにチャコールグレーのスーツを着こなし、張りのあるツイルのフロックコートを、上質なマフラーを覗かせるように羽織っている。こういう格好は例えば、なかなか予約が取れないフレンチのお店、ディナーコースお二人様より各七千円から、なんてところがしっくりくる。
 それがなんで、味噌ラーメンに餃子と半炒飯つけても千円でおつりが出るような店に……!
 立香の声にならない心の叫びなど知るよしもなく(仮に聞こえていたとしても無視していただろうが)、ロード・エルメロイ二世は入店を逡巡するように入り口で立ち止まってしまった。彼としても生徒がいる店で飲食するのは気まずさのようなものがあったのだろう。が、食券はすでに購入しているし、
「お客様、後つかえてますので奥のほうおねがいしますーお冷置いてますカウンター席おかけくださーい。お一人様ご来店、カウンター四番さんでーす!」
「いらっしゃーせー!!」
 暴力的なまでの客さばきに圧倒されあれよあれよと、こともあろうに立香の隣に着席してしまった。残念ながらそこ以外の席は埋まっているか済んだ食器が下げられていないかのどちらかだ。
 気まずい。四者四様に気まずい。
「あの、先生? これはですね……」
 オルガマリーはへどもどしながら何か言おうとするが、手袋をはめた大きな手に遮られる。
「別に何か言うつもりはない。帰宅中に飲食することは禁止されていないだろう、オルガマリー・アニムスフィア」
「そ、それはそうですが」
「なら何を気にする。規則を遵守するのは生徒の模範として素晴らしい姿勢だが、行き過ぎると萎縮効果を生む。まして禁止されてもいないことなら尚更だ」
「はあ……」
 釈然としない風ではあったが、エルメロイ二世の理屈は明らかに筋が通っている。オルガマリーはそれ以上追求することはしなかった。
 エルメロイ二世はコート、マフラー、それから手袋を外し、食券をスタッフに渡すとグラスの水を一口飲んだ。
「よく来るのか?」
 一息ついたそのついで、とばかりの問いかけに答えるものはいなかった。オルガマリーは首を横に振りそうになって、それが隣の立香に向けられているものだと気づいた。マシュは最初からそれと知っていたので立香を見ているだけだったが、当の立香はといえば、
(なんで黒味噌ラーメン半熟煮卵乗せなんて頼んでしまったんだろう……)
 意中の相手に声をかけられたにもかかわらず、ひたすら後悔の念に打ちひしがれていた。
「……?」
 エルメロイ二世は立香の心ここにあらずと言ったうつむき加減の横顔を奇妙な目で見下ろしていたが、特に質問には意味のない社交辞令のようなものだったので、返答がないのを深くは追求しなかった。
おかげで立香は深く深く思考に沈んでいく。
 落ち込んでいた。むしろ意中の相手が隣にいるからこそ、後悔しているのだった。食べるの大好き、ラーメン屋に一人なんて朝飯前、場合によっては大盛りだってぺろりと平らげる立香にも乙女心は存在する。別に大食らいの自分も否定しないしラーメンがよくないと言うわけではないけれど、せめて、ああせめて今日だけでも――
(わたしも野菜か、豆乳味噌ラーメンにしておけばよかった……)
 女性に人気の枕詞がついているとか、野菜でバランス取ろうとしてるんですと弁明できるメニューにしておけばよかったと後悔してももう遅い。立香の目の前には、湯気を立ててごま油の香りを主張するどんぶりいっぱいの黒味噌ラーメン半熟煮卵乗せがでんと鎮座ましましている。
「――すごい色だな」
 ああっほら、言わんこっちゃない!
 若干引き気味のロード・エルメロイ二世の声を聞いて立香は顔を覆いたくなった。こんなこってりどころかごってりしたメニューを喜々として食べるようなヤツだと思われるなんて。
(わたしだって好きな人の前では普通にかわいい女の子でいたいのに……!)
 よよと泣き伏したくても習慣あるいは本能とは酷なもので、立香はほとんど無意識に割り箸を手元に引き寄せていた。何をどう言っても黒味噌ラーメン半熟煮卵乗せが食欲をそそるのも、それにあらがえないのも事実である。隣ではオルガマリーが野菜のボリュームに目を見開いているし、マシュが興奮気味に豆乳味噌を写真におさめていたのだがそれも立香の目には入っていなかった。
 ただ、
「うまいのか、それは」
 一言、隣からかけられた声に顔を上げてしまう。
 エルメロイ二世は、興味深そうな顔だった。真っ黒なスープは確かに人目を引くし、あえてこれを立香が食べているのだから旨いのだろうかと疑問に思うのも当然、なのかもしれない。
「お、おいしいと、思います」
「そうか」
 では次に来たときに食べよう、と、エルメロイ二世は内心で呟く。立香は返答の意図が読めずに箸を持ったまま硬直している。
「どうした、伸びるぞ」
「え、あっ……あ、お先にいただきます」
「ああ」
 箸を親指で挟んだまま合掌、一礼し、立香はまず白髪ネギともやしをかき分けて麺をすくう。練りごまが絶妙なコクをもたらしているスープを一口飲めばその美味しさに煩悶などどこかに吹き飛んでしまう。
「はあ……おいしい……」
 なんだかんだでこの味のために今日の午後はがんばったようなものだ。思わずこぼれた溜息のような一言に、エルメロイ二世はふっと小さく微笑んだ。立香はそれに気づくこともなく、ただ麺にスープを絡めては口に運ぶ。
 いい食べっぷりだ。見ていて胸がすくようだ。
 おそらくそういう感慨を抱いていたのだろう。エルメロイ二世はしかし、いくら生徒とはいえ人の、まして女性の食事を凝視するのも不躾だと思い直して正面に向き直った。ちょうど、注文していた味噌ラーメンネギ抜きが運ばれてきたところだった。
「――先生」
 割り箸を二つに割ると、立香に呼びかけられる。おいしいものを食べて彼女の精神はそこそこ復活したらしい。
「なんだ?」
「よかったらこれどうぞ」
 差し出されたのは彼女がいつも手首につけているシュシュだった。予備なのか単なる装飾なのかわかりかねるが、赤に金糸で刺繍がされた中々派手なデザインである。
「……?」
 その真意をはかりかねてエルメロイ二世が怪訝な顔をしていると、立香は困ったように笑った。
「髪の毛まとめないと汚れますよ」
「ああ」
 なるほど、一理ある。
 エルメロイ二世はヘアゴムなど持ち歩いてはいない。そもそもラーメンを食べに来たのだって気まぐれだった。選んだ基準はたまたま目に入ったのと、食事にかかる時間が短くて済みそうだという判断だけ。特段ラーメンを好きなわけでも食べ慣れているわけでもない。
「……ありがとう」
 なので、先人のアドバイスには素直に従うことにした。シュシュではきつくは束ねられないのでゆるくひとまとめにしているのを、立香は興味深そうに見上げている。遠慮を知らない目だった。さすがに居心地が悪いので何か言おうとすると、
「ちょっと、立香……!」
 オルガマリー・アニムスフィアが立香の袖をくいくい引っ張っている。
「は、なんですか会長」
「……こんなに食べきれないわよ」
 気になってちらりとそちらを見ればさもありなんと思えた。食の細そうなオルガマリーに、すり鉢を逆さにしたような野菜のトッピングは無謀とも言える挑戦にしか見えない。
「そうだろうと思いました」
「……あなたね」
「しょうがない、マシュ、ちょっとずつもらっちゃおう」
 おや、と、エルメロイ二世は食事しながら眉を上げた。マシュ・キリエライトもオルガマリーと似たり寄ったりかと思っていたが、そうではないらしい。マシュも立香もひょいひょいと気軽な箸使いで野菜の山を崩し、自分のどんぶりの嵩を増している。
「いただきます、会長」
「後で返してって言ってもあげませんからね」
「言うわけないでしょ! ……ありがと」
 キャンキャン言いつつも仲睦まじい光景に笑みが浮かぶ。学友とのこういった経験が希薄なエルメロイ二世は、正直に言うと少しだけ、うらやましかったのかもしれない。ただそれをどうこう言うつもりもないので、後は単に、食事のペースが人知れず速くなるだけだった。
「え、先生もう食べちゃったの?」
 レンゲと箸を綺麗にそろえると、立香が目を丸くしてエルメロイ二世を見上げる。先に食事が運ばれてきたのはこっちだったのに、とでも言いたげな目だが、立香は追加の野菜をオルガマリーからもらっているのだ、最小限のトッピングしか乗っていない味噌ラーメンを、成人男性のエルメロイ二世が先に完食するのは明らかである。
「ああ。では私は先に失礼するが、君たちも寄り道などせず速やかに帰宅するように」
 コートを羽織りながら言うと、三者三様のお行儀のよい返事が上がる。あたたかいものを食べた直後だ、マフラーはいらないだろう。来たときと同じような威勢のいい声に見送られつつ、彼は寒空の下へと消えていった。
「あ」
 後に残った立香は思い出す。
(先生、シュシュつけっぱなしじゃん)
 別にフリルやレースが付いているわけではないが、どちらかというと厳つい顔の男性があれをつけて街を歩くのはなかなか滑稽に違いない。今から走って追いかければ、間に合うだろう。でも――
「……ま、いっか」
 気づいたのならそれでいいし、気づかなかったら、まあ、先生には悪いけど、そのほうが自分には好都合だ。
口実やきっかけは、多ければ多いほどいいのだから。
 思い直した立香はスツールから降りることをしなかった。半熟煮卵は今日も、絶妙な具合にとろけている。

 

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