Kadenz(欠損注意)

ぐだおとアマデウスとマシュ(ほんのりぐだマシュ)

書いたり消したりの真っ最中。

――Ⅰ

 時間の概念など無意味でしかない、それはわかっているけどそれでもあえてこう言おう。
 2016年12月31日、俺は左腕を失った。
 痛みと混乱、そして恐怖。それらのせいで何が起こったのかはっきりとは覚えていない。ただ結果として、俺の左腕は二の腕の途中までを残して吹き飛んだ。切断なんてものじゃなかった。文字通り、木っ端みじんに吹き飛んだ。
 やたら細かい赤の飛沫になって失われるそれを見ながら、それでも俺は、死ねないのかもしれない、と、漠然と感じていた。
 マシュはすでにいない。サーヴァントたちもいない。
 得体の知れない、何故敵対しているのかも理解できない悪魔を前にして、俺はありとあらゆる種類の恐怖を感じていたのに、それでもやはり、死ぬことはできないと思った。
 生き残ろうと思っていたわけではない。
 俺の左腕が俺のすべてを道連れに、俺の代わりに死んだのだろう。
 俺の生きるすべ、俺がかつて目指したもの、俺が何よりも望んだひかり。
 そういう、きれいであたたかくて、何よりも大事にしたかったものが、俺から奪われた。
 だからある意味では、俺は2016年の12月31日に、死んでしまったのだろう。
 俺から死を奪った左腕のために。

 ***

 目を覚ました時に感じたのは失望でも安堵でもなかった。あれほどにすべての破滅を願い、世界にいつくしみを感じ、普遍の安寧のために腕すらも失っていながら、俺は何も感じなかった。強いて言うならば、この先向けられるだろう憐れみの目と腫れ物に触るような態度は面倒だろうな、ということだった。不便さを厭うよりも先にそんなことを思いついた自意識の肥大は、なんと醜いことだろう。
 あるいは、何を感じようともしなかったのかもしれない。
 もう、弾けない。いや、もう、弾かなくていい。
 もう逃げのための言い訳を重ねなくていい。だって俺にはもう、そうするための「手段」が文字通りないのだから。
 ぼんやりしていると、傍らで誰かが身じろぎしたのに気付いた。春のような髪の色、ああ、マシュだ。どうしてここにいるのだろう。君は俺を、俺なんかを守ってきれいさっぱりいなくなってしまったのだというのに。
「……マシュ?」
 ベッドサイドの椅子で寝入ってしまったのだろうか、突っ伏した彼女の後頭部が穏やかに上下している。
 触れたいと思った。けれど何かが無性に恐ろしくて、触れる前に自分の手を確かめてしまった。
 汚れていないだろうか。なにか邪なもので穢れてはいないだろうか。
 本気でそう思っていたわけではない。ただ、マシュを見ていると、まっさらな水をたたえて清らかなままにある、透明な器を前にしているようで俺は羞恥しくてかなわない。俺の内側には十何年ぶんの濁りきった自我が詰まっていて、うぞうぞと触手のようにどす黒い何かを伸ばそうとしている。そんなイメージが見える。
 俺の手は汚れてなんかいないのかもしれない。けれど、マシュはどこからどう見ても美しかった。いわゆる女性としての、美、とか、麗しさとか、そういう次元の話じゃない。妖精や仙女に純粋培養のまま育てられた、うつくしいもの。現実離れした神々しさすら、彼女の中には感じられて、俺はそれが羨ましかった。俺だっていつかは、この手でそんなものを――
「せんぱい……」
 生み出したいのだと願っていた。
 あどけなく俺のことを呼ぶマシュの小さな声に、唐突に涙腺が決壊した。何が悲しいのかわからなかった。そもそも悲しくて泣いているのかもわからなかった。もう左手はない。涙をぬぐうなら右手だけでやらなければならない。音を奏でるのなら――いいや、もうそんなことはしなくていい。もう二度と俺の両腕は鍵盤の上を駆けまわらない。賞賛も栄光も挫折も屈辱ももう得られない、得ずにすむ。そこにあるのは虚無だけ。笑ってしまうほど残酷な安寧があるだけ。嗚咽はやがてひきつり、慟哭へと変わった。俺が泣いているのを、この腕の欠損のためだと皆が誤認してくれた、そのことだけは静かに嬉しかった。

”立香はもう、ピアノを弾かないの?”
 
 かつて友人がいた。の、だと思う。
 神童と呼ばれた子供だった。どんな言葉を連ねても、あいつの奏でる音を形容できはしない。心が洗われる、だとか、揺さぶられる、だとか、奇跡だとか。そんな言葉を使えばそれが地に堕ちるようで怒りすら覚えた。

”立香はもう、ピアノを弾かないの?”

 それがどれだけ傲慢で愚かで悪辣な問いかも知らず。

 俺がどんなに努力したって一生お前にはかないやしない。そんな惨めったらしい立場で馬鹿みたいにピアノなんか弾けるわけがない。どうせ俺は平凡なんだ、お前みたいなやつに、俺のことがわかるもんか。みんなお前しか求めていない。みんなお前の音だけしか聴かない。それなら俺が、ピアノなんて弾かなくたって何の問題もないじゃないか。

 言ってしまった。口から飛び出した言葉を聴きながら、本当に自分が言っているのか疑わしかった。それでも後悔だけはしていなかった。むしろ、せいせいしていたのかもしれない。もうこれで、些末事に頭を悩ませなくて済む。もう身を焼くような嫉妬と不愍に苛まれることもないのだから。
 それでも、顔を上げるのが恐ろしかった。あいつは悪魔のようにせせら笑うのだろうか。鬼のように怒り狂うのだろうか。どちらでもいい。御使いのようだとすら言われるあいつのそんな顔が見られるのなら、俺も最後に泥をすすった甲斐がある。

「――言い方を変えるね」

 俺は、忘れていたのだろう。天使は慈悲深い者ではない。あれは、大いなるものの意思に背く存在を、罰するのだということを。

「立香はもう、人の前でピアノを弾かないのかい?」

 なんと滑稽だろうか。なんと哀れだろうか。
 悪魔ですら、そのときの俺に同情してくれるに違いない。
 天使は笑っていた。裁きの光に焼かれた――などというと誇張にもすぎるだろうけど、俺はとにかく、その笑顔を忘れられない。
 その一方で、その問いになんと答えたのか思い出せない。何か、何か言ったような気はするのに。



――Ⅱ
 
 私は今も生きています。
 もう何も残されないと思っていたのに、目を開けてみれば私は、私のからだはすべてが元通りでした。
 息をしています。心臓は一定のリズムで脈動しています。
 触れるものすべてに、今までと同じものを感じます。
 あるものはちくちくとしていて、あるものはやわらかで、そしてあるものはあたたかく、冷たい。
 頬を刺すほどに冷えた雪山の空気すら涙がでるほどに嬉しかったのです。
 だから、悲しかった。
 先輩の左腕が失われてしまったことが悲しかったのです。
 いろいろな人が、先輩のために動こうとしてくれました。
 ダ・ヴィンチさんはガントレットを応用した義手を作ろうと申し出ました。
 ベディヴィエールさんは、マーリンの作った自分の義手は先輩には少し難しいからと、その申し出を後押ししてくれました。
 けれど、先輩は首を縦には振りません。
 見た目はともかく元通りに動くのだからと言っても、同じでした。
 頑なな、けれどにっこりと穏やかにほほ笑んでいる彼を見かねたのがロード・エルメロイ二世でした。
 腕のいい人形師を知っているから、落ち着いたら連絡をとってやる、と。
 その人形師の方は、生身の人間と寸分たがわぬ美しい義肢を製作できるのだそうです。
 それも先輩は、断りました。「でも、お高いんでしょう?」なんてふざけているような返事で。
 いくらかかってもカルデアがどうにかする、君はいわば、救世主なのだから。
 そう言ったのは誰だったでしょうか。
 とたんに険しい顔をした先輩は、少し考えたいと言い残して部屋を出ていってしまいました。
 立ち上がるとき無意識に左腕で椅子を引こうとした、その仕草はとても、とても――いえ、こんなことは、きっと言ってはいけないのでしょう。

 ***


――Ⅲ
 マスターは嘘つきだ。その嘘を知っているのは多分カルデアで僕だけだろう。
 危篤状態のマスター候補生の一人が、音楽魔術でもやっていたのだろうか、彼の部屋には立派なピアノがあった。これはと思って引っ張り出してきたのは僕だ。当然、立香には見咎められたけれどそんなことはどうでもいい。
 僕は死人のために自重するよりは、生きている者のために彼らを愛したい。
 ピアノがあれば愛するマリアに曲の一つも書いて演奏してやれる。ときには別の誰かを慰めるために演奏してもいい。娯楽と言うのは大事だよ、生きるために必要な無駄の一つさ。それも、多分一番必要な、ね。
 それでも立香は渋い顔のままだった。僕は、しかし申し訳ないけど、笑ってしまった。
 彼は倫理観なんてもののために分別のあるふりをしているのではない。
 わかってしまうのは、ある意味では彼も僕と同類だからだろう。
 君、このピアノを弾いていたね?
 少年は顔を赤くした。羞恥か、怒りか。そんなことはどうでもいい。彼はそう、やはり、僕と同じだった。
 無駄であると知っていながら、それでも何かを残したがる。
 無駄であると知っているのに、それでも誰かに伝えたがる。
 いいや、理屈ではない。僕らはそれを、どうしてもやめることができないのだ。

 ***

 懺悔します。
 俺は怖かった。
 何もかもから逃げるようにやってきたカルデアでなすべきことが終わるのが怖かった。
 俺のせいで世界が元通りになってしまうのが怖かった。
 なのに俺はもう死ねず、どこにもいけない、それが怖かった。

 どうか許してください。

 すべての、凡庸なるものの神よ。